リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

貴重な写真も載っている

忘備録

内藤記念くすり博物館のご案内−トピックス

内藤記念くすり博物館 近代化産業遺産認定コレクション

<その20>医薬品 少なく産むのは戦略か-避妊薬と避妊具-

 太古より人類は少なく産んで大切に育てる生物学的特長を持っており、このタイプの種の保存戦略を「K戦略」と呼ぶ。人類はこの戦略に加え、膣外射精や羊の腸や魚の浮き袋製のコンドーム、それぞれの民族に伝承の薬物などを用いて避妊を行い、人口を調節しようとしてきた。

 産業革命により社会が多数の人間を扶養できるようになると人口爆発が起こり、産児制限が急務となった。より確実な避妊方法として、日本では明治36年(1903)頃にキニーネ塩が主成分と思われる膣内挿入型避妊薬「貴女(あなた)の友」が販売された※1。大正時代の日本初の国勢調査の折には人口増加が懸念され、アメリカの活動家・サンガーも来日し、産児制限の方法を説いた。当時の避妊薬はクエン酸、ホウ酸、サリチル酸などを用いたとされる※2。

 コンドームは19世紀にオランダから日本に持ち込まれた。明治7年(1874)刊の『東京新繁盛記』にはオランダ語の「ルーデサック」に「防瘡(ぼうそう)袋」の語をあてており、性感染症予防の目的があったこともうかがわれる。大正時代にゴム製の製品が輸入され、すぐに国産品も製造された。

 第二次世界大戦が近づくと兵力増強のために出産が奨励された。避妊薬が再び登場するのは戦後のことである。産む、産まないは選択の問題とされるが、大きな自然の摂理からみると人類もまた「安定した環境では少産になる」という生物学的な戦略に従っているだけなのかもしれない。

※1『日本産児調節史』太田典礼著 (社)日本家族計画協会 昭和44年
※2『山峨(サンガー)女史家族制限法批判』(於京都市医師会講演大要及び補遺)山本宣治著 大正11年