リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

山下泰子「女性差別撤廃条約と日本」

文京学院大学国語学文京学院短期大学紀要 第 9 号(2009)pp.13-33

女性差別撤廃条約と日本

抜き書きします。

NGO が「日本女性差別撤廃条約 NGO ネットワーク」(Japan NGO Network for CEDAW、以下、「JNNC」)を組織し、7 月の審議には、45団体、84 人がニューヨークへ傍聴に出かけた。まさに「2009 年は、CEDAW 年」といえよう。

日本女性の地位は、2008 年度の国連開発計画(UNDP)によるジェンダー・エンパワーメント指数では、108 か国中 58 位、世界経済フォーラム(通称「ダボス会議」)の男女平等度調査では、130 か国中 98 位と先進国中最下位クラスに低迷している。こうした状況を、CEDAW 委員は、「政府の責任である 3)」と評し、ポリティカルウィルの欠如を指摘した。「総括所見」は、女性差別撤廃条約の法的拘束力の再確認、条約内容の国内法への完全な組み入れをし、監視メカニズムを設置すること、選択議定書の批准が、司法による条約直接適用を促進し、司法が女性差別撤廃の助けになることを繰り返し求めている 4)。
3)2009 年 7 月 23 日、CEDAW における第 4 回日本レポート審議中の Soledad Murillo de la Vega 委員(スペイン)の発言。
4)Concluding Observations(注 2)、paras.20,25.

 制定過程における日本政府の主な主張を紹介する。
(1)日本は、1976 年第 26 会期 CSW では、原案の経済的社会的権利の規定に反対意見を提出した。その理由として、高橋展子労働省婦人少年局長(当時)は、ILO が政府・労働者・使用者の三者構成で条約を決定するのに、政府だけで決める国連の条約で労働に関する権利を規定していいか、という疑問をもっていたからという。当時 CSW の委員国でもなかった日本は、審議過程にも参加できず、不安をもったということである。高橋氏は、やがて ILO 事務局長補として、ILO の立場から CSW に参加し、「労働基準設定というものは、労使の利害が衝突するわけですから、ILO の条約は非常に厳密な手続で作られます。それを国連のようなところで、フワッーと作られては困るという考え方でした 8)」と述べている。
 これには、一定の理由を見出せるとしても、現実の女性差別がもっとも問題となる労働分野についての条項を欠くことになると、そもそも女性差別を撤廃する条約は成り立たないのであって、ILO としては、反対するのではなく、専門の立場から ILO 諸条約との整合性を図り、一般条約で扱う内容について積極的な発言をすることこそ意味があったのではないだろうか。日本政府の見解が、ILO の立場に近かったとのいうのも、高橋氏の影響力がしのばれて興味深い。
(2)1977 年第 32 回総会第三委員会作業部会の議論で、日本は、締約国の差別撤廃義務に関する条約案第 2 条が、「差別を撤廃するための、制裁を伴う(accompanied sanction)措置をとる」という文案だったのを、「制裁を含む(including sanction)」とすることを提案し、これが採択されている 9)。「必ず制裁を伴う」という前者と、「制裁が含まれる場合もある」という後者では、締約国への義務付けが明らかにトーンダウンされている。
(3)1978 年第 33 回総会第三委員会作業部会の議論で、日本は、教育に関する第 10 条で、「同一(same)の教育課程」という文案を「同一あるいはそれに相当する(same or equivalent)」に変更するよう求めた。イギリスの提案により、第 10 条のすべての条項で、あいまいな「平等な(equal)」という表現をやめて、「同一(the same)」にという変更が加えられたところであり、日本の提案は一顧だにされなかった 10)。これは、日本の高等学校のカリキュラムの「家庭一般」が女子のみ必修だったことを維持しようという意図の発言であった。
 教育については、第 10 条(c)の男女共学の条項についても、女性の地位委員会案に対するコメントで、男女別学のメリットをあげ、共学の早期達成の条項に反対した 11)。これには、他に同調する国もあり、受け入れられたため、男女共学は、「男女の役割についての定型化された概念の撤廃を、この目的の達成を助長する男女共学その他の種類の教育を奨励することにより、……おこなうこと」という条文に収まってしまった。このことが、今日に至っても公立高校の男女別学の存在を許し、2008 年の教育基本法第 5 条(男女共学)の削除を導く素地になったのではないだろうか。
 日本は、さらに第 10 条柱書きから「男女の平等を基礎として」という文言の削除を提案したが、これは数カ国から反対され、撤回している 12)。
(4)雇用に関する第 11 条で、日本は、「結婚、妊娠、出産休暇を理由とする解雇を『罰則をもって禁止する』という箇所を緩和するよう主張したが、同意をえられず 13)」、第 11 条 2 項(a)の「婚姻又は出産休暇 14)を理由とする解雇及び婚姻をしているかいなかに基づく差別的解雇を制裁を課して禁止すること」という条文になった。
 制定過程における日本政府の態度は、「後ろ向き」の提案に終始しており、日本の差別的な現状を肯定するために、条約を限定的なものにしようと、国際社会の動向に背を向け、無用な努力をした様子が明らかである。性別による差別を禁じた憲法をもち、その前文では、「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と決意を新たにした日本のあり方がこれでいいのか、忸怩たる想いがある。制定過程で政府代表を務めた高橋氏は、政府の訓令のままに発言しなければならない立場を「みなさんから相手にされず、辛かった 15)」と述懐されたほどである。

2.女性差別撤廃条約の署名、批准
1979 年、条約制定過程の最後の年、国連公使として審議に関わった赤松良子氏は、「この条約が……国連総会で採択された時、賛成投票をした政府代表や随員の女性たちは、文字通り抱き合って喜んだのでした。しかし、私はその興奮のさ中にあって、あぁ、でも日本は批准できるのだろうか?と思わずにはいられませんでした。この条約の内容を知っていた私は、これが
日本で問題になった時の人々の反応が、とても心配だったからです 16)」と語っている。
(1)署名に向けて
 しかし、赤松氏の心配を他所に歴史は動いた。1980 年 7 月 17 日、日本政府を代表して、日本初の女性大使となった高橋展子・駐デンマーク大使が、第 2 回世界女性会議に設えられた署名式で、この条約に署名をしたのである。高橋氏自身、「1980 年 5 月に、私はデンマークに大使として赴任し、7 月のコペンハーゲンでの世界会議に首席代表を勤めることになりました
が、会議の直前まで、日本がこの条約に署名できるかどうか分からない状態でした。婦人団体、ジャーナリズム、超党派の婦人議員などのバックアップにより、やっと署名することに閣議で正式に決まったのが、何と 7 月 15 日(開会式の翌日)でした 17)」と述べているほど、その署名は危ういものであった。
 署名へのプレッシャーグループとしてもっとも力があったのが、参議院議員市川房枝氏であった。市川議員は、右から左まであらゆる全国規模の女性団体に呼びかけて国際婦人年連絡会を結成し、国会では超党派の女性議員を組織して、条約署名を内閣に迫った。最後は、国会解散総選挙中に大平正芳総理大臣が急逝され、伊東正義官房長官が首相臨時代理を務めるとい
う事態の中、持ち回り閣議で条約署名が決まったという経緯があった。そのため、経営者団体からの批判があったことが、条約承認案件の国会審議において示された 18)。