リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

太田典礼『日本産児調節百年史』

1976年 発行元(有)人間の科学者

 有害避妊器具取締の弾圧から、突如として堕胎法改正の叫びが上った。日本では始めて(ママ)のことだった。
(中略)
 自由と堕胎、産児制限社会主義は複雑な関係にあり、また人口問題と大きなかかわりをもちながら、いわゆる産児制限運動とは別になっている。産制は妊娠予防をめざすもので堕胎を罪悪視してその解放に反対していた。革新的である筈の社会主義者は、産制に反対であり、堕胎解放にも賛成しなかった。(p.341)

第一次世界大戦後になると、ヨーロッパでは大回転して産制を受け入れると共に堕胎法改正にも熱心になる。生活防衛のためには公式論に従っておれなくなったからである。医師の方でも中絶の適応症をひろげ、社会的適応症を主張するようになる。(p.342)

として、「これには一九一七年(大正六年)のロシヤ革命の影響が大きい。一九一八年、旧刑法の堕胎罪を撤廃、二二年の刑法であらためて、意志の中絶を条件付で認めた」と述べている。これについては、コロンタイの動きと合わせてチェックする必要がある。


また、1922年サンガー夫人が来日すると、安部磯雄キリスト教社会主義)、山本宣治、松岡駒吉らが月刊誌「産児調節詳論」を出したが、堕胎にはまだ反対であった…としているが、その9年後:

 安部磯雄がようやく昭和6年(1931年)堕胎法改正期成会をつくった。(p.342)
(中略)
…期成会趣意書は
「我国の人口一億に垂々[なんなん]として、国の経済力に過ぎたる人口の為めに国民の生活状況は名状すべからざるものがある。これを救ふ途は、人口の殖へる事を阻止する外ないのであるが、産児制限のメリットが今日では未だ不完全であり、之れ丈けを以てしては産児の制限は到底完全に実現することは出来ないのである。故に之が補填として人口手術(勿論医師に依る)を以て胎内の結晶を排出する所謂堕胎の必要が生じて来るのである」。
 人工状態は五十年前の堕胎法制定時とは全然変化してしまったのであるから、其法律は今日の社会状態に沿ふ様改められてあらねばならない。(p.343)

安部らの運動には、市川房江、、平塚雷鳥らが参加し、十三の婦人団体によびかけて、昭和七年七月「堕胎法改正期成同盟」の結成へと発展した。「女は結婚の自由を持っていると同時に、嫌な男の子や女の希望しない赤ん坊を産まなくともよい、それは女性の権利であるし、堕胎はこの権利の実行である。又親が多産すると母性の健康を害し、道徳意識を低下させ、母の負担を不当に増加するような場合は、母性尊重のため堕胎を許すべき……」とし、家計が困難で出産すると、一家の生活に悪影響を及ぼす場合とか、暴行によって受胎した場合は堕胎を認めるべきだと唱えて、刑法の改正を訴え、これが婦人参政権運動へもとりあげられるに至った。(p.345)

*1


以下、太田の本に戻る。
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1934年2月18日(昭和9年)の婦選退会(協調会館)の議案に「産児調節相談所光栄併に堕胎法改正を政府に建議する件」があり、石本静枝夫人が提案して、決議事項の一つとなっている。「位置、産児制限の後任と堕胎法改正の決議」がそれである。(p.345)

*1:ただし安部磯雄については、荻野美穂の『「家族計画」への道 近代日本の生殖をめぐる政治』で、国が一九四〇年五月、優良多子家庭表彰要綱を策定した当時、「かつて産児調節運動に邁進した人々の中には、安部磯雄のように産児制限は「今日から考えると殆んど意味をなさないばからしいことであった」と切り捨て、いまや早婚と質の良い子を産むことが「国家への御奉公」だと主張した者もいた(p.136)」と、取り上げられている。