「中絶=殺人」の公式の作られ方
評論家齋藤美奈子氏の『妊娠小説』(ちくま文庫 1997年)に次が出てくる。
60~70年代は、妊娠中絶がふたたび*1大きな危機にさらされた時代だった。60年代のしょっぱな、1960年は、妊娠をめぐる二つの大きなトピック(きびしいニュース・めでたいニュース)で幕を開けている。
「きびしいニュース」とは「妊娠中絶否定論」が急浮上してきたことだった。経済的に豊かになったから、ではない。若年労働力を確保するための国家的要請である、とその手の資料には書いてある。しかし、わたしたちはそうした総論的解釈とは別時限の新事実をつきとめた。
きっかけはどうやら「外圧」だったのである。明治政府が欧化政策の一環として堕胎の規制に乗り出したのと、なんだ、同じパターンじゃないの。
1960年2月、ニューデリーで開催された「世界家族計画会議」がそれで、十年で出生率を半減させた「成果」を日本代表が得々と発表したところ、「それは堕胎のおかげだろう」と各国代表からの思いがけない十字砲火が浴びせられた、というのである。感心させようと思って発表したのに、逆にぶん殴られたのだから、かわいそうに、ずいぶん仰天しただろう。ともかくこのとき、極東の島国ニッポンは、はじめて骨身にしみて知ったのである。先進諸外国では、堕胎派どうやらやってはいかんことになっておるらしい……。
ただし上記の世界家族計画会議(the sixth International Conference on Planned Parenthood)は、実は1959年2月に開かれており、そこは斎藤氏の勘違いであることを言い添えておく。(Google Bookに証拠発見。)斎藤氏はもう一つの「めでたいニュース」を紹介している。
1960年2月といえば、もっとビッグな「めでたいニュース」があったことを明記しなければならない。「皇孫誕生」すなわち浩宮徳仁親王(現皇太子*2)の御生誕、である。……国の維新がかかった「望まない妊娠」糾弾報道と、国民あげての「望む妊娠」美化絶賛報道とが呉越同舟。……外に先進諸外国の圧力。内に天皇家の慶事。「外圧」と「ミカド」にめっぽう弱いのは、黒船来航依頼つちかってきた、この国最強の伝統である。中絶師団と出産の美化がまみえ、…(中略)…「妊娠中絶は合法的な殺人だ」という(外来の)思想が徐々に流布されていく。……中絶反対論者は「殺人であるからよくない」と胸を張り、中絶肯定論者は「殺人であるが必要だ」と主張する。どっちにしても「中絶=殺人」で、この等式はやがて既定の事実化していった。
さらに生長の家の動きがあった。
この余勢をかってか、60年と61年には、中絶の制限を盛り込んだ請願書が某新興宗教系団体の手で国会に提出され、ことは優生保護法見直し論議にまで発展する。東京オリンピックの直前。ニッポンは突然(外圧で)「生命の倫理」に目覚めたのだった。
その10年後と20年後の二度にわたって優生保護法改正案が登場し、その「阻止」のために女性たちが運動を展開したものの、それ以降も上記の「中絶=殺人」のイメージは通奏低音のように残り、「中絶」はタブーにされていった。斎藤氏は以下の「ポエム」を紹介している。
堕胎は語られなかった/中絶について語ることはなかった/生むことだけが誇らしげに語られながら女たちは押し黙っていた/自分のからだのことよりも/人に知られることをおそれ/同じ痛みをもちながら/互いに知らぬふりをした/それが女どおしのやさしさだったのか――/痛みは語られることなく/女ひとりの歴史のなかに刻まれてあるだけだった
齋藤はこれをパンフレット『優生保護法改悪とたたかうために』の冒頭から採ったという。