リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

不妊は病気じゃない――非・当事者の違和感から

人倫研ニューズレターNo.11 投稿原稿

不妊は病気じゃない――非・当事者の違和感から

金沢大学大学院社会環境科学研究科 塚原久美

■思いこみがつくる病

不妊は病気じゃないわよ。

― 妊娠しないことで健康が害されたり、体が痛んだりはしないでしょう?

不妊症ってのはね、子供ができない、産めない。そういうことを苦痛に感じたり不都合に思ったりしたときに不妊ははじめて「不妊症」という病気になるのよ。

― だから、たとえ結婚数か月でも本人たちが妊娠しないことを苦にここへ来ればそれはもう不妊患者ってことなるし、逆に数十年妊娠しなくても、本人たちが全然構わなければ、それは病気とは言えないの。

― 一種の思いこみが病気をつくるのよ。

(「愛しすぎる男たち」台本より)1

 この芝居が上演されたのは1994年。上記に抜粋したのは、精子バンクで体外受精を手がける女性医師のセリフである。不妊当事者へのリサーチをもとに脚本・演出を手がけた古城十忍は、翌年のインタビューで「生殖革命の発展のせいで……むしろ『精神的な病い』が増えてしまった」とコメントした。

 作品中に描かれたデータで男女をマッチングする結婚相談所は、当時すでに実在していた。「近未来の日本」という設定だった高級会員制精子バンクのほうも、上演の2年後、西麻布のEXCELLENCEという会社の登場で現実のものになった。2

 それでも、「体外受精、生殖革命がこれほど進んでいることや、不妊治療で悩んでいる人たちが大勢いるという『事実』は、まだまだ知られていません。『選び取る可能性』を広める技術が進むこと自体はいいけど、それにまつわって生じてくる問題が知られていないんです。それを知らせたかった」という古城の志は、10年後の今でも通用する。

3

不妊治療の光と陰

 昨年、金沢大学のジェンダー学入門講座で、青野透教授は不妊治療をテーマに取り上げた。今回、筆者が講義後の感想シートに目を通す機会に恵まれたところ、不妊治療について多くの学生が「知らなかった/初めて知った/驚いた/ショックを受けた/人事ではない/不安になった」と書いていた。

 不妊治療の存在自体を知らなかったという感想は皆無だったが、「カップルの10組に1組が悩んでいる」「男女の組み合わせによって生じることもある」「女性ばかりではなく男性が原因のこともある」「治療にはかなりの苦痛を伴う」「子どもがいない女性への差別意識が今でもまだまだ強い」「治療のために仕事を辞める人もいる」「体外受精1回で30万~50万円もかかる」「成功率が低いので、くり返し治療を受ける」といった事実に衝撃を隠せないコメントが相次いだ。

 また「結婚したら子どもができて当たり前だと思っていた」「いつかは産むつもりだった」と、子どもを産むことを当然視していた自分に気づいたといった感想も目についた。

 およそ200人の20歳前後の学生たちが、格別に無知なわけではあるまい。不妊治療にまつわる“事実”――特に、脚光を浴びる「夢の治療法」の陰の部分については、まだまだ知られていないようである。

不妊不妊

 WHOの定義によれば、不妊とは「妊娠を望みながら2年以上夫婦生活を営んでも妊娠しない状態」である。その原因を「生殖臓器のある特定の解剖学的あるいは機能不全」に求め、「子孫を遺すという生殖能力に問題がある肉体的・身体的障害」と不妊症を位置付けるのは、医師のあいだでは比較的一般的な見方のようである。4

 だが、日本産科婦人科医会が会告において、体外受精胚移植の対象を「婚姻しており,挙児を希望する夫婦」に限定していることは、医学の領分から逸脱してはいまいか。「医学的な定義」を超えて、「『家族』や『ジェンダー』についての観念などのような、医師の医療技術評価以外の価値判断の基準」5を持ち込んでいるからだ。そうした「価値判断」は、「結婚・性愛・生殖を三位一体とする近代家族のみを指向」6しているため、医療は万人に公平に提供されるべきとの観点から批判が出てもしかたがあるまい。

 それでは、近代家族の枠組みから外れた人々に「既婚者と等しなみの『生殖権』を認めれば問題は解決する」かといえば、それも違うだろう。そうした“平等論”が暗に前提している「『自らの命をつないでいきたい』という欲求を生物的欲求」に起因させることには、「もっと慎重でなければならない」。また、「生殖技術の臨床基準とその技術を受ける側の女性」が、医師たちと同様に「日本の家族観・親子観に拘束されている」ことにも視野を拡大して考える必要がある。7

■真空から痛みは産まれない

 冒頭のセリフのように不妊不妊症を切り分けていくことで、「不妊不妊症=治療対象」とみなす医学モデルとは別の不妊観が成立する可能性が開けてくる。そこから、いわゆる「挙児希望」をそのまま「不妊治療を受ける希望」に読み替えることの過ちを指摘する視点も出てくる。

 当事者の「不妊の痛み」は真空から産まれはしない。「子どもを産む」のが当然で「産むべき」だとされ、「産めない女はダメだ」といったレッテルを張られることがプレッシャーとなって当事者を圧迫するからこそ、「不妊の痛み」が生じるのであって、それが「不妊治療を受けてでも産みたい」という思いを強める。逆に言えば、「不妊」の事実は「社会のありようさえ変われば今ほどの痛みを伴わないものになりうるし、不妊治療の陰の部分が多くの人に知られていったり、他の選択肢が肯定的に紹介されたりすることで、また別の選択肢が主流になっていく可能性もある。8

 さらに、「不妊の人=不妊症患者」とする「決めつけ」が、医学という権威を背景に行われていることを思えば、そうした言説が当事者の「不妊観」を規定していくことの権力作用にも留意すべきだと考える。不妊症を「思いこみがつくる病」と見なしていくことには、単なる気休め以上の意味があるのだ。個人が「真に自由な選択をするためには、各個人にとって何が正しいかという決めつけと隔絶していなければならない」からである。9

 とりわけ少子化社会が問題視され、「産むこと」への圧力が強い現在においては、不妊の当事者にとってよかれと思って「産めるようにしてあげる」パターナリズムよりも、むしろ当事者が「子どもを産め」という圧力から逃れて、治療を受けるかどうか、どんな治療をどこまで受けるか等を自由に選べるようにサポートすることこそ重要であろう。

不妊症にならない人

 自らも不妊だったというフリーライターの鈴木良子は、不妊患者になることで失うものとして、第一に「人生のコントロール感」を挙げている10。

 大阪府が平成13年度に行った不妊に関する実態調査も鈴木の分析を裏付けている。アンケート調査に応えた不妊治療の経験者たちは、現在の心境について「先が見えない」「将来設計が立てられない」など口々に〈コントロール感の不在〉を訴え、自らの心的状況を「辛い」「厳しい」「不安」「イヤ」「諦め」「鬱気味」といった言葉で表した11。さらにこの調査は、不妊の女性たちが、「赤ちゃんまだ?」「子どもはいるの?」といった周囲からの問いかけや、医療機関における医師の態度や応対、暴言などに怒りと悲しみを覚えながら、それに“耐えている”姿も浮かび上がらせた。その裏には、鈴木が不妊治療によって植え付けられると主張する「罪悪感・罪業感」があると思われる。

 鈴木は自らがそうした罪悪感に陥らなかった理由として、育児雑誌のライターとして「3歳児神話」や「母性神話」12が「嘘っぱち」だと知っていたためではないかと分析している。また彼女は、不妊と知った時の自分が「病院に行かなかった」ことも、不妊患者として周囲から期待される心理/行動パターンに陥らなかった要因のひとつに挙げる。

 言い換えれば、彼女は「不妊状態の人は不妊症患者として治療を受け、産むべきである」と決めつける不妊観の恣意性を知っていたがために、自己コントロールを失うことなく、自由意思で自分の在り方を選択することができたのである。その結果、彼女は不妊症にならずにすんだのだ。

■追い込まれる自己決定

 2003年に人倫研が招聘したバーバラ・カッツ・ロスマン教授も、女性の自己決定が「実は社会システムやイデオロギーに知らないあいだに影響されている」ことを指摘し、自分一人で考えていると他の「可能性のある道」に気づかず、八方ふさがりに感じて自分を無価値だと思いこむ傾向があるとしている13 。

こうした考え方に対し、当事者の「子どもが欲しい」気持ちの真実性を否定するのかと批判するのは的外れであろう。むしろ、「子どもが欲しい」という当事者の思いを「挙児希望の有無」といった形で白黒をつけ、固定化しようとすることの方がよほど問題である。

 実際、人の「子どもが欲しい」という思いはそれほど確固たるものではない。日々のちょっとしたできごとや経験、条件の変動などに影響されたうつろいやすいものである。そうした感情の一瞬を切り取って固定化し、「子どもが欲しければ治療して産むべき」との価値観を押しつけ、不妊治療という行動に駆り立てていってはならないはずだ。またそうした一方的な価値観の押しつけは、いくら不妊治療を受けようとも妊娠・出産に至れない人々にとって、救済にならないばかりか、その傷を深める効果しかもたらさない。

■それでも産めない人々

 日産婦会の調査によれば、2001年(平成13年)に体外受精による移植手術を受けた患者の総数は5万4000人を超え、治療周期総数は約7万6000回、移植回数も6万回以上を数える。そのうち生産分娩数は1万942件で、出生児数は1万3158人である(多胎妊娠が含まれるため分娩数より出生児数の方が多くなる)14。この数値をもとに移植回数に対する出生率を求めると、わずか14%にすぎない。つまり、多くの不妊患者たちが、何度もくり返し失意を味わっているのである。

 成功率の低さにもくじけず、1回30~50万円の費用を払って体外受精をくり返した結果、わが子の出産に至った人はまだいい。経済的理由で、あるいは年齢的な限界が来て、断念せざるをえない人も少なくないからだ。最後の頼みの綱とされている顕微受精による出生率も、理論的には8割程度まで上がると考えられているにも関わらず、実際は約半数止まりだという15。

 「子どもを産む」ことのみをゴールと見なす“不妊治療”のありかたは、「それでも産めない人々」にとって非常に酷な状況を産みだしている。いかなる技術をもってしても、わが子を胸に抱けない人々が必ずや存在するのが不妊治療の現実であるとすれば、それに応じたシステムの整備があってしかるべきだろう。 

そうしたニーズに対して、2002年に日本不妊カウンセリング学会が設立された。福田貴美子会長は、「日本は子どもを生むのがあたりまえという社会通念のもとに置かれ不妊である方が周囲からプレッシャーを受けている」、「進んだ医療技術を用いてもすべての方が子供を授かり、不妊の悩みが解決されるわけでは」ないとの見解から、「理解し納得した選択」と「自己決定の支援や心のケアに対するサポート」の重要性を訴えており、今後が期待される。16

不妊はこころの病?

 今のところ、当事者のデリケートな心理が受胎の有無にどう影響するかは、科学的に解明されてはいない。だが、ストレスだけで月経不順になる人もいることを思えば、心理的なケアで状況が改善されるケースがあってもおかしくはない。

 アメリカでは、従来から「不妊はからだだけではなく、心の問題も大きなファクター」だと考えられてきた。全米で最大規模の体外受精センターのアリス・ドマール教授は、1987年に「Mind/Body」という不妊患者向けの心理療法を開発した。このプログラムは全10回で1500ドルと高額だが、当事者たちは「不妊治療1回のサイクルより安い」と参加してくるという。終了後6ヶ月以内に40~50%の人が妊娠しているとの実績から、ドマール教授は、「不安な精神状態がほぐれ、日常をとり戻すことで、結果的に妊娠する人が多いのではないか」と述べている。17

 日本でも、不妊患者の多くが苦にしているのは、「子どもができないことそのもの」よりも周囲との「人間関係」であるとの報告もある18。そうした心理的/社会的/人間関係的な「問題」は、今の“不妊治療”では治せない。また生殖補助技術(ART)19によって無事妊娠・出産に至ったとしても、たいへんなコストをかけて「作った子ども」に対し、親がつい過剰な期待をかけてしまう恐れもある。

 配偶子や胚の技術的な操作をいくら改善しようとも、そうした問題は解決できない。当事者の生活を視野に入れたより総合的な対応が望まれるゆえんである。さらに、「自分はそんなに子どもを欲しかったわけではない」という気づきは、「不妊治療するしかない」という思いこみからは出てこない。「産むこと」のみを目的とした“不妊治療”ではなく、当事者の「産めない苦しみ」に寄り添った対応が重要なのはそのためでもある。

ジェンダー・バイアス

 また、“不妊治療”によって介入的操作を受ける患者のほとんどが女性であり、操作を行う側の医師が男性に大きく偏っていることによるバイアスにも留意すべきではないだろうか。現在は、男性に原因がある不妊の場合でも、人工授精や体外受精を受けるために医療施設で横たわり、処置を受けるのは、女性の患者である。しかも、そうした処置を受ける女性の中には、自分自身は全くの健康体で生殖機能に何ら問題もない人も多数含まれており、必ずしも“出産”できるという保障がないまま、彼女たちは自らの身体的および精神的健康をリスクにさらしている。「子どものためなら母親は自らを犠牲にすべき」といった母親への期待(母性神話の一変形)も、そうした実態を支えている。

 これに対し、すでに当事者の立場から不妊治療のリスクが過小評価されていることへの警告が発せられている。不妊問題の当事者グループ「フィンレージの会」は、体外受精で一般的に使われる薬剤の組み合わせによって「患者の四分の三が副作用を経験しており、その一割が入院治療が必要なほど重篤で、一時は生命の危険な状態になった人もいる……にもかかわらず、副作用についての医師からの説明は……まったく不充分だ」と指摘している。20

 さらに「クロミッドを初めとする排卵誘発剤は人によっては卵巣の腫れや腹水や胸水がたまる副作用があり、場合によっては重い脳障害、死に至るケースもある、女性への侵襲性は依然として大き」く、「裁判では患者がいずれも勝訴」しているとの報告もある21。ところが、「生殖医療の場では、治療法やその副作用についてのインフォームド・コンセントさえまったく不十分」なのだ20。

 不妊治療が非常に心身の負担が大きいことは、女性たちの経験談からも想像に余りある22。経験者の多くは、身体的・心理的な苦痛や屈辱感、当初の予想をはるかに超える時間的・金銭的・精神的な負担を訴えている。「希望のサイクル」に閉じこめられた不妊患者たちの生活は、「挫折を中心にまわる」ようになる9。心理的サポートもなく、「子どもを産むため」にすべてを犠牲にする生活が数年から人によっては10年以上も続くとすれば、そうした生活自体が“患者”の健康をむしばんでいく可能性も高い。

■チャイルドフリーという選択肢

 アメリカでは、1974年にRESOLVEという民間団体が設立され、不妊という危機に直面した男女をサポートしている。この全国的な不妊団体は、「不妊」に直面した人々のために相談窓口を設置し、情報提供や権利擁護のための活動を行うのと平行して、どうしても不妊治療で子どもを持てない人々のために「養子縁組(adoption)」や「チャイルドフリー(childfree)」といった選択肢も提示している。

 チャイルドフリーとは、チャイルドレス(childless=「子に欠けた」の意味)とは違って、子どもがいない状態を肯定的に捉えた表現である。つまりこの言葉で、「子どもができない」ことを失敗と見るのではなく、ひとつの客観的事実と捉えた上で、「子どもがいないからこそできる生活」を選択していこうという積極的な生き方を提唱している。

 RESOLVEが提示するような積極的な「チャイルドフリー」のありかたは、残念ながら日本ではまだあまり一般的ではない。むしろ、大きな時間的/経済的/精神的負担の末に思いを遂げられなかった上に、オルタナティヴな選択肢も見いだせず、自己肯定もできずにいる人々は、不妊とその治療の失敗という二重のスティグマにまみれてサイレント・マジョリティーを形成しているように思われる。そうした人々の存在がほとんど顧みられていないことも、日本の不妊治療の大きな問題点のひとつではないだろうか。

■生殖の医療化

 上記のように、不妊治療の問題を考える際には、必ずしも“妊娠・出産”に限定しないで個々人の心的な満足や幸福感に目を向けることが重要である。そのために、本稿では社会的・歴史的文脈から見た生殖医療位置づけを簡単に振り返ってみる。

 日本では、明治時代に西洋医学を基本とした助産婦教育が開始されたことで、共同体の中で女性の生殖活動を介助していた産婆たちが消えていった。第二次世界大戦後はアメリカ駐留軍の指導のもと、医師の下に助産婦/看護婦を配した医療体制が確立され、生殖は医療の管理下に置かれるようになった。さらに1948年の優生保護法以来、非合法堕胎の激減と人工妊娠中絶の急増によって「医療」への従属と依存を学んだ女性たちは、お産の時も病院に出向き、医師の助けを求めるようになっていく。

 こうした現象をロスマンは、「出産の医療化」と呼んだ。女性たちが自らを医学の権威に委ね、自分や他の女たちの身体感覚や経験を信じなくなった結果、生殖への「不安」が生じ、医療への「依存」がもたらされたというのである。その延長線上に「生殖の医療化」もあった。23

 不妊治療の背景にある医師への依存は、他の医療場面でも見られる。だが不妊問題の場合には、一般的な医療・科学への依存に加えて、「女は産むべき」とするジェンダーイデオロギーの問題も絡みついている。そのため、不妊治療の問題を考える際には、医療現場の各所で積み重ねられてきた「患者中心医療」や「自己決定」の論議に大いに学びながら、“常識化”されてきた性や生に関する思いこみを丹念に読み解いていく作業も必要ではないだろうか。

■患者と医学の両立

 次に、ARTが急速に発展した要因として、医師側のニーズに目を向けてみる。「医師の倫理」と「科学者の倫理」のダブル・スタンダード24を生きる医師たちにとって、最先端のARTは「不妊患者のニーズを満たす」と同時に「科学の発展にも寄与できる」たいへん希有な魅力を備えた技術だったに違いない。ただし、これまで見てきた通り、医師が見た「ニーズ」は“患者”の「産みたい思い」を切り取って「挙児希望」として固定化し、医学的知識の色眼鏡を通して「不妊」を「不妊症」と読み替えることで、「不妊治療」へと一律に方向付けたものに他ならなかった。

 さらに、少子化の時代を迎えて妊娠や出産の絶対数が減少している今、自由診療で相当な診療費を稼ぐことができる不妊治療という新たな医療サービスは、医師たちにとって経済的にも魅力的だという側面もありそうだ。そうだとすれば、少子化対策等の名目で国が不妊治療に助成金を出すことは、医師の収入を安定させることにもつながり、ますます女性たちに不妊治療を受けさせようとする圧力が強まるのではないかと危ぶまれる。

 

■縦横に考える

 さらに不妊治療がこの地球上のどこで行われているかという疑問に思い至れば、いわゆる南北格差があることに気づかずにはいられない。なにしろこの治療法にはあまりにもコストがかかる。また「代理母」などの“仕事”に誰が応ずるかを考えれば、不妊治療の技術が南の身体を北の利益に従属させるものだという批判も、あながち考えすぎではないと思えてくる。13

 また、地球規模で考えた場合、“先進国”の高齢化と“発展途上国”の高い乳児死亡率やHIV/AIDS問題のために増加のペースは落ちたとはいえ、人類はなおも増え続けている。地球環境や人口過剰問題にも目を向ければ(東京が世界で最も人口密度が高い!)、日本の少子化問題がいかにローカルな問題にすぎないかと気づかされる25。また、環境ホルモンが原因の精子数減少や子宮内膜症の増加が不妊を広めている可能性も指摘されている。このように、今や不妊の抜本的な対策を考えるために、グローバルな視点が欠かせない時代になっている。

 個人の文脈、歴史の文脈、グローバルな文脈、さらには他の先端医療や社会における差別の文脈など、様々な角度から不妊問題を縦横に考えていくためには、異分野間で連携した総合的な検討を要することは言うまでもない。

■素人の違和感から

 本稿を書くきっかけになったのは、東海林教授からお送りいただいた「提言骨子vers3」である。一読して私は違和感を覚え、「今の不妊治療の選択は自己決定とは言いがたい」「不妊治療の倫理を論じる際には研究と臨床、技術のレベル等で分けて考えるべき」「臨床として確立したARTは生殖に関する当事者の自由な決定に委ねられるべき」と反射的に返信した。おまけに「生殖は国家の一元的管理がなじまない領域」ではないかとの持論もお伝えした。

 そんな返信をもう少し膨らませて投稿しないかとの打診を受けた時、私は戸惑った。今回の返信の偏りと、不妊治療に関する自分の無知を自覚していたからだ。しかし、人倫研において欠けているのは、もしかしたら私のような法学・医学・倫理学いずれのプロパーでもない、いわば素人の日常的な感覚に基づく意見ではないかと考え直して、依頼に応じることにした。自分の直感的な意見について、ごく一部ながら少々展開してみたのが本稿である。

 これまで“不妊治療”は医学の主導で進められてきた。だが、その結果がもたらすものはもはや医学の領域に留まってはいない。だからこそ、医学主導という偏りを是正するために非医学者が積極的に新たな観点を持ち込み、ジャンルを超えた議論をしていくことには意義がある。それは、多様な価値観、多様な視点が交錯する現実社会の中で有効性を有するルール作りのために重要な作業になるだろう。

 当事者はどうしても視野が狭くなりがちである。不妊治療を受ける当事者、治療を施す当事者、治療の“産物”を譲り受けて研究を行おうとしている当事者の意見を聞くことは大事だが、その一方で、直接的な利害のない者の視点から、あるべき姿を構想し、提案していくことも大事だ。それは、非当事者が果たすべき重要な役割かもしれない。

 そのように非当事者が「議論に加わっていく」ことで、当事者性の議論も一段上のレベルに進む。すなわち、不妊治療を「不妊の当事者」のみの問題に留めておくのではなく、“私たち”の「生命観」や「人間観」にもろに影響してくる問題として、誰もが「ルール作りを考えていく当事者」になる地平を開いていくこと、それが人倫研のような学際的な研究グループの一つの役目ではなかっただろうか。

 そうした議論のわずかな一端でも担えたのだとすれば、望外の幸せである。

1 作・演出古城十忍 劇団一跡二跳 第24回公演上演台本 単行本にもなっている。

2 EXCELLENCEは、登録費150万円を払った会員が有名大学の若い男性の精子をもらい受けるシステムで、不妊カップルのみならず、自分の子どもを望む単身女性の会員も受け付けている。

3 清水久美「生殖革命が進展する中、〈父性〉はいずこへ?」、『ヒューマン・セクシュアリティ』No.18, 1995-3

4 「不妊治療の倫理的側面」鈴森薫、『医学のあゆみ』196(7), 2001

5 柘植あづみ『文化としての生殖技術 不妊治療にたずさわる医師の語り』1999

6 浅井美智子「生殖技術と家族」、『生殖技術とジェンダー』1996

7 江原由美子「『不妊治療』をめぐるフェミニズムの言説再考」、『生殖技術後ジェンダー』1996

8 生殖にまつわる選択は、善くも悪くも国や社会に大きく影響されている。第二次世界大戦の戦前・戦中と戦後において、日本の人口政策が180度転換したことで、出生率や中絶率の状況は劇的に変化したのはその一例である。

9 ジェーン・バートレット『「産まない」時代の女たち チャイルド・フリーという生き方』2004

10 平成14年度 男女共同参画推進のための講座 講座記録集「子どものいない人生をどう生きるか~自分らしい生き方を探しながら」 調布市生活文化部市民参加推進室男女共同参画推進室。これに「女性としての自信(女性としてのアイデンティティ)」「人としての自尊心」を加えた3つを鈴木は指摘している。

11 http://www.pref.Osaka.jp/chiikihoken/funin/houkoku.html

12 3歳児神話は子どもが3歳くらいまでは母親が家で育てたほうがいいとするイデオロギー。母性神話は女性には母性本能があり、ゆえに子育ては女に向いているとするイデオロギー。3歳児神話と共に「女は産み・育てるべき」という規範をサポートしているが、大日向雅美の研究などで科学的根拠の貧弱さが明らかにされてきた。

13 第7回:不妊医療レポート 生殖医療と母性 ニューヨーク市立大学社会学教授アーバラ・カッツ・ロスマン氏に聞く http://www.babycom.gr.jp/pre/funinn/base/7.html

14 日産婦誌 55(10)

15 菅沼信彦『生殖医療』 2001

16 「ご夫婦で納得した不妊治療を」

http://www.kamiyaclinic.com/info/rejime_fukuda.htm

17 第2回不妊医療セポートin Boston「Mind/Body」のグループワーク ボストンIVFセンター アリス・ドマール教授に聞く http://www.babycom.gr.jp/pre/funinn/base/bs1.html

18 真島朋子他「不妊カウンセリングの内容と患者への関わりについての検討」、日本不妊学会雑誌48(3・4)号 2003

19 Assisted Reproductive Technology(補助生殖技術)の略。しばしば訳に当てられる「高度生殖医療」は、不正確な訳語だと筆者は考える。

20 利光恵子「『不妊治療』が引き起こす社会的・倫理的問題」、ヒューマンライツ 159, 2001-6

21 最相葉月のなんでやねん日記 2004-3-23(Tue) http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/sunbbs8/

22 レナーテ・クライン『不妊 いま何が行われているのか』1991、フィンレージの会編『新・レポート不妊 不妊治療の実態と生殖技術についての意識調査報告』2000など参照。

23 バーバラ・K・ロスマン『母性をつくりなおす』1996、白井千晶「不妊の「マクドナルド化」――生殖の医療化の事例として」2001も参照

24 村上陽一郎『生と死の眼差し』2001

25 「世界人口増加が減速?」

http://tftf-sawaki.cocolog-nifty.com/blog/2004/03/post

_25.html