リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

射水市民病院問題に関する某所での議論を目にして,その直前に自分がたまたま読んでいた森岡正博さんの「姥捨て山問題」(『生命学への招待』)の枠組みでそれを説明することができるかどうかとか,その意味や,その限界はどこにあるかなどなど,漠然と考えてしまった。以下,まとまっていなけど,つれづれに。

>明るみに出た姥捨て山問題に,私たちはどのように対処していけばよいのか。

>このような問題に対しては,肯定/否定の二分法はもはや通用しない。

>私たちの試みの最大の挑戦は,姥捨て山問題が「自らの姿を見えにくくする仕組み」を備えているという点を,明るみに出すことにある。

どうやって? 姥捨て山問題を「日常生活の隅々に,そして世界の至るところに新しく〈発見〉しようと試み続けること」だと森岡さんは言うけれど,それで本当に「姥捨て山問題への道はひらける」のだろうか。その試みを経てどこに至るのだろう。そこから究極的に,「自己self」の否定に陥らないためには,いったい何をどう考えればいいのだろう?

直感的に思ったのは,その作業を独りでしてはダメだということだ。姥捨て山問題との対峙は,人は独りでは生きていないという当たり前のことを,積極的に捉え返していくことと平行して行わねばならないのではないか。姥捨て山問題と対峙することは,それ自体の「自己弁護」としての倫理ではなく,その問題と対峙する「わたし」が,様々な他者たちと日々,接していくなかでの倫理と切り離してはいけないのではないか。

そこで,ふと思い出したのは,昨日,子どもの小学校の懇談会で先生がおっしゃっていたことです。

「小学校一年生くらいだと,『自分がされていやなことを他の人にしてはいけません』というのが,一番よく理解できるんですよね。もう少し大きくなると,『自分がされていやでないことも,してはいけないときがある』というもうちょっと複雑なことも理解できるのですが」

でもそうなると,「自分がされていやなことでも他の人はいやじゃないこともある」し,「自分がされたいことでも他の人はいやなこともある」わけだし……。

「他者と生きていく」ことは難しい。いったい倫理って……と思わずにいられない。

川本隆史さんによれば,ロールズは,倫理学の主要目標を「複数の利害が競合しあっている具体的事例に則して,どちらの利害を優先すべきかを決断するのに用いられる,正当な諸原理を定式化すること」においていたとか。(『ロールズ 正義の原理』より)

「定式化」は,いったいどこまで可能なのかと思うけど,自分自身の「次の一歩」を迷うとき,たしかに指針がなかったらとてもやっていけやしない。

そう思うと,ロールズが「決断」という言葉を使っているのは共感できる。でも原語では,これってheとかsheが主語だったのかな,それともweだったのかな……まさかyouじゃないよね……などと,気になってしまう。

このこだわりって,このところ,「誰が(誰の行動に関する)ルールを決めるのか」ということを考えていたからだよね。ここがオチだな。さて,仕事に戻らねば。