リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

 論理学をちゃんと学んだことのないわたしだけど,試しに簡単な思考パズルをしてみよう。

P1:XはAである。
P2:XはBである。
P3:AはBである。
C1:XがBであるのは,XがAだからである。

 上記のC1が成り立つのは,Bであることが常にAに帰因する場合のみである。XがCであってもBになりうるとすれば,C1は成り立たない。つまり,次の可能性がありうる。

P4:Bは常にAだとは限らない。
P5:実のところBはCである。
C2:XがBであるのは,XがCだからである。

つまり,XがBであることに関して,Aは一見関与しているように見えても,もしかしたらXがBであることにAは何ら寄与していない可能性があることが分かる。

さて,中絶はタブーだといわれる。また,中絶は日本ではほとんど語られない。『広辞苑』によれば,タブーとは「触れたり口に出したりしてはならないとされる物・事柄」であるので,これを上記に当てはめると,Xは「中絶」に,Aは「タブー」になり,Bは「触れたり口に出したりしてはならないとされる物・事柄」のことになる。(いささか煩雑なので,以下,Bは「語られない」とする。)これを上記の式に当てはめてみると,次のようになる。
 
P1':中絶はタブーだと言われる。
P2':中絶は語られない。
P3':タブーは語られないものである。
C1':中絶が語られないのは,中絶がタブーだからである。

一見,これは正しいように思えるが,すでに見たとおり,C1'は必ずしも真ではなく,上記には登場しない別の項が「中絶が語られないこと」の決定要因である可能性は残されている。だが従来,「中絶が語られないのは中絶がタブーだからである」という結論で多くの人は納得してしまい,別の答えの可能性は追究されてこなかった。

だからわたしはタブー破りをすることにして,語りうるものとして中絶を扱おうとしている。それはいいのだけどね,構成をうまく作れなくて四苦八苦している。