リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

2006/10/8に私のからだから合宿で発表した際の資料の残りです。引用の際には,以下の発表資料であることを明記してください。参照(1), (2)

SOSHIREN主催 女のからだから合宿 Oct 8, 2006
分科会「ザ・中絶〜嘘と沈黙を超えて」
発表題目「中絶という罪の構築」
金沢大学大学院社会環境科学研究科 塚原久美

なお,今回でこの発表の資料は終わりです。

未熟児救命への関心

1891 ミネアポリスの医師Brownの保育器が7ヶ月の未熟児を救命
1898 シカゴの病院に初の未熟児救命ステーション
1904 バッファローの万博で展示された保育器が未熟児を救い話題に
1929 英国嬰児生命保護法――「生きて生まれることが可能な子(胎児)の殺害は,child destruction(堕胎と殺人の中間概念)を構成する」〜生存可能性(viability)の目安は妊娠28週以上

(c)K. Tsukahara 2006/10/8

※viabilityの概念が初めて法律に登場したのは,上記の英国嬰児生命保護法です。これが古い辞書における"abortion"の定義が変わった元のようです。

胎児の発見*1

〜1930年頃を境に胎児救命目的の帝王切開が急増〔by ショーター〕

教皇ピウス11世「婚姻に関する回勅」1930/12/31

  • 中絶は「罪なき者=胎児」を「直接的に殺す」行為
  • 「誤った憐れみ」で「治療的中絶」を行なう医師に警告
  • 出産を意図しないセックスを非難
  • 弱者や胎児を保護する国家の責任を強調
  • 避妊や中絶の絶対禁止
  • 家族内での女の従属的な位置を主張
  • 女性解放は「偽の自由」「身勝手な義務怠慢」と断罪

(c)K. Tsukahara 2006/10/8

なぜか1930年頃に帝王切開が急増したと歴史家のエドワード・ショーターは述べています。答えは上記の回勅にあると,わたしは見ています。現代社会になってからは,この回勅によって初めて,中絶は胎児を殺すことだとして明確に位置づけられ,それと同時に,子どもを宿し産むことは女の本分だというイデオロギーも明示されました。この回勅の女性抑圧的な性格は,上記の内容に示したとおりです。こうした警告,非難,禁止,断罪が行なわれたこと自体,すべからく当時の時流を反映していると考えられます。

ヴァチカンのリプロ・ポリシー

19世紀中・後半 合理的精神(啓蒙主義自然主義社会主義等),女性の権利主張,マルサス主義etc.の広まり
=>1864 ピウス9世「誤謬表」,1869 カトリック初の中絶全面禁止「受胎時に魂が宿る」,1870教皇無謬説

1967 英国妊娠中絶法
 =>1968 パウロ6世『適正な産児調節に関する回勅(フマネ・ヴィテ)』

1973 米国ロウ判決
 =>1974教皇庁教理聖省が「堕胎に関する教理聖省の宣言」

1994 カイロ国際人口会議「リプロダクティヴ・ライツ」提唱
 =>1995 ヨハネ・パウロ2世『いのちの福音』で「中絶は殺人」

(c)K. Tsukahara 2006/10/8

欧米社会における女性のリプロダクティヴ・ライツの拡張と,ヴァチカンの“リプロダクティヴ・ポリシー”には,上記のとおり,見事な対応が見られます。欧米で初めて中絶を合法化した英国妊娠中絶法が制定された翌年,第二次世界大戦後の世界のリーダーたるアメリカで中絶を合法化する最高裁判決が下された翌年,国際社会で初めて中絶を選択する権利を含みうる概念としてリプロダクティヴ・ライツが提唱された翌年に,次々とヴァチカンは反中絶の姿勢を強化する回勅や宣言を出しているのです。最後のパウロ2世の言葉が重要なのは,murder謀殺という言葉を用いたことにあります。

胎児生命の可視化&実体化

1965 『ライフ』誌ニルソンの胎児写真&『婦人公論』剣持加津夫の胎児写真を掲載
1967 映画「2001年宇宙の旅
1970.7『朝日新聞』「特集:ゆれる優生保護法」に剣持の胎児写真を採用
1972 『週刊女性自身』3か月の中絶胎児のグラビア写真
1975 同「ショック!初めて明かされた人体の不思議!! 赤ちゃんの神秘」 胎児成長過程の紹介

(c)K. Tsukahara 2006/10/8

 雑誌『ライフ』の表紙を羊膜に包まれた胎児の写真が飾ったことは有名です。このレナート・ニルソンの写真はトリックを用いていたと言われていますが,一方,日本でも同じ頃,『婦人公論』に胎児の写真が掲載されました。ただし,すでに“中絶大国”だった日本の剣持の被写体は,中絶された後の胎児でした。

 1967年の映画「2001年宇宙の旅」の最後に中空に浮かぶ赤ん坊のような胎児の姿が登場することは,ご存じの方も多いでしょう。そうした映像は,「胎児」という言葉に具体的なイメージを与えました。バーバラ・ドゥーデンのいう「可視化」です。

 やがて1970年代に入って“水子供養”という新しい習俗が全国の寺院に急速に広まっていくのと同時に,女性週刊誌などで胎児の写真が物珍しいものとして,あるいはおどろおどろしいものとして,取り扱われるようになっていき,「水子=胎児」のイメージが定着していったものと考えられます。

水子供養の資料

水子―“中絶”をめぐる日本文化の底流(p.395-6.)より,「付録 水子の供養について」(紫雲山地蔵寺のパンフレット)

Marketing the Menacing Fetus in Japan (Twentieth-Century Japan - The Emergence of a World Power , Vol 7)(p.86-7.)より,日本の女性週刊誌に載った「水子霊」のたたりを報じる記事の例

女性たちの罪悪感をかきたて,たたりがあると脅すことで水子供養が商売として作られていったようすが伺えます。

以上