リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

先週末,博論の指導教官と久々に会って構成について相談した。大枠はgo signが出たのだけど,論文のための議論とは別に,個人的に,わたしが「胎児の尊厳」についてどう考えているのかとの質問を受けた。

一般的に「胎児の尊厳」を守るということを胎児が胎児であることを根拠に“義務づける”ようなプロライフよりは,むしろ義務ではない分だけ“ある特定の胎児”とより深く向きあうことが可能になり,自らの選択について自分自身で責任を引き受けるプロチョイスのほうが,かえってその胎児の存在を尊重しうると,わたしは考えている。

もちろん,それはすべてのプロチョイスを自動的に肯定することではない。ただし現実社会では,"mercy killing"のほうが,教条主義的な“こうすべき”という信念に則った延命よりも人道的な場合がありうる。ただし,だからといってすべての“mercy killing”は許される……というルールを勝手に作って,それに則っていることを根拠に自己正当化する考え方もまた棄却されるべきだけれども。

具体的な文脈を離れた“倫理”は,だいたいにおいて贋物であるか,少なくとも結果的に机上の空論に陥っているように思われる。その意味で,現実に差し迫られることのない第三者が,“自分を棚上げにして”頭のなかで組み立てた倫理は,現実を目の前にするとほとんど無力だ。

そのような“自分を棚上げにした”倫理は,実のところプロライフのみならず,プロチョイスの側にも見受けられる。ただ,自分の外の権威に依拠して自分の判断を肯定するプロライフよりは,自分自身の選択に責任をもたざるをえないことを自覚的に引き受けたプロチョイスのほうが,より倫理的だとは言えるのではないだろうか。

なお,わたしが言っているプロチョイスとは「すべての場合に関して女性の中絶権」を肯定するという教条主義的なものではなく,「自分で選択する権利」を主張する考え方のことだ。プロチョイスとプロアボーションは混同すべきではない。