abortionに関する英語のニュースは非常に多いのですが、このところ、日本語で読める世界の中絶事情に関するニュースが増えているような気がします。
8月1日付朝鮮日報では「夏季休暇利用し中国で中絶手術を受ける韓国人が急増」
7月31日付AFP BBNewsでは「アイルランドで妊娠中絶が一部容認、新法成立で」
7月29日付INDO WATCHERビジネスプレミアムでは「堕胎の強要、女性には拒否権がある―女性向け啓発集会」
27日付時事ドットコム Photo Newsではリオデジャネイロのコパカバーナビーチにおける「中絶の権利主張」の様子も。
もしかしたらこれは、新型出生前診断の登場で、中絶問題への関心が再燃していることと無縁ではないのかもしれません。
7月31日付京都新聞のサイトには、「出生前診断の法律問題 現状と矛盾、本音の議論を」
だけどこの記者が、
日本では70年代、疾患のある胎児の中絶条項を法に盛り込もうと国会で議論されたが、「障害者排除につながる」と反対運動が起こり、実現しなかった。その歴史を考えると今後、母体保護法が改正される可能性は低いだろう。
と見る理由が、今一つよく分からない。この記者は次のように続けている。
出生前診断の技術進歩は著しい。早期に疾患を調べられる新検査を受けた妊婦は4月の導入後3カ月間で1500人を超えた。診断を享受する社会の流れは止められないと、多くの専門家はみている。
「あるべき社会」を目指し整備された法律と、それに逆流するかのような動き。この矛盾は、何のための出生前診断かという本音の議論を社会が曖昧にしてきた結果と言える。夫婦や恋人にはさまざまな事情があり、中絶の選択も非難されるべきではない。だがその数が増えれば障害者を受け入れない風潮を招きかねず、障害者の生きづらさにつながることを認識したい。
議論が必要だという主旨には同意するが、今一つよく分からない議論だ。そもそも優生保護法の焼き直しでしかない母体保護法は、「あるべき社会」を目指して整備されたとは到底言えないのではないか。
また、技術進歩が著しいのは出生前診断だけではない。事後避妊も、妊娠検査も、中絶方法も進化してきたし、「障害」への見方や社会の対応も70年代とはずいぶん違ってきている。一方、新型出生前診断が完璧とは程遠いにも関わらず、なぜこれほど多くの人が検査に殺到したのか、マスコミにはその責任の一端がありはしないか・・・といったことにも目配りしたい。