リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

日本における少子化問題の特殊事情 ―晩婚・晩産化とリプロダクティブ・ヘルス/ライツ ―(2)河内優子

共立国際研究 : 共立女子大学国際学部紀要

https://kyoritsu.repo.nii.ac.jp/record/2306/files/%E5%85%B1%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A0%94%E7%A9%B629_3kawauchi.pdf:title=日本における少子化問題の特殊事情 ―晩婚・晩産化とリプロダクティブ・ヘルス/ライツ ―(1)河内優子(2012)]

日本における少子化問題の特殊事情 ―晩婚・晩産化とリプロダクティブ・ヘルス/ライツ ―(2)河内優子(2019)

(2)の方から少し書き出してみる。

本来,リプロダクティブ・ライツは,女性のみに限定することなく男性,女性双方の人間の基本的権利と考え
られるものである。だが歴史的にみて女性が妊娠・出産についての主導権を持たず,性的に抑圧されてきたという現実があること,また妊娠・出産,人口妊娠中絶,育児といった人間の実際の再生産プロセスにおいて,女性が担い,課される身体的,精神的,社会的負担が男性に比べ圧倒的に大きい,といった状況が重視され,主として女性の「リプロダクティブ・ライツ」に力点が置かれるようになった(4)。
 たとえば伊佐智子は「出産はもっぱら女性の身体に生じる現象であり,基本的人権における『身体の不可侵性』の原則,ならびに,これからの人生への選択,という意味での自由,幸福追求という原則にもとづいて,生むかいなかの決定は女性自身にその権限があり,リプロダクティブ・ライツは,女性の基本的な人権としての性格を持つと考えられる」と主張している。
 ところで,このリプロダクティブ・ライツ概念の出現には,歴史的に遡り,大きく二つの流れがある。第1 に欧米における中絶権獲得の動き,そして第2 に人口問題への反発である。そして後者にはさらに二つの流れがある。一つは途上諸国に広がる人口爆発に対する人口管理政策(Birth Control)への抵抗であり,もう一つが欧米先進諸国での優生学に基づく人口管理政策に対する女性の抵抗である(5)。いずれもその中心には,国家管理に対する女性の自己決定権の獲得が据えられている。
 第1 の流れは,1960 年代,欧米で勢いをもった第2 派フェミニズム運動に始まる。当時,男女平等の制度の確立と女性の労働権を求める機運の高まりとともに,経済的自立と身体と性の自立を求め,自分の身体をコントロールする声が女性の中からわきあがった。さまざまな「セルフ・ヘルプ(自助)」グループが作られ,性と生殖に関する女性の選択権を要求として掲げる「リプロダクティブ・フリーダム」獲得運動へと展開していった。
 旧来,女性は受け身で,性,セックス,生殖などについて何も知らない方がよいとされ,自分で決めることもできず,夫に重要な決定を委ねてきた歴史がある。だが,そうした旧弊に抵抗し,自分の身体を知り,自分でコントロールしようという「身体こそ,わたしたち自身」という考え方が,まず広がり,それが「子どもを産むか産まないかのところで自決権がなければ,女性の本当の自立はない」という主張につながっていった(6)。
 こうした「リプロダクティブ・フリーダム」を保障する権利がリプロダクティブ・ライツであり,女性の自立を求める運動として,妊娠中絶における女性の自己決定権を求める(7)運動が世界的に波及していった。そして実際,欧米各国で,イギリス1968 年,アメリカ1973 年,フランス1975 年と,中絶合法化が相次ぎ実現していった。ちなみに日本では例外的に,戦後の特殊事情を背景に定められた1948 年の優生保護法の規定により堕胎罪が空文化され,中絶は戦後早い段階で実質的に合法化されていた(8)。
 だが中絶論争においては,複雑に絡む問題があった。女性の特質としての母性への根強い価値観,人種差別や民族浄化の歴史に不妊,堕胎の強制があったこと,世界の文化・宗教の独自性の尊重,といったことなどである。それらをめぐる議論は容易に帰着点を見出せるものではない。中絶法反対を無批判に訴えることはできず,そうした問題をめぐる論争が,当時のフェミニズム内部にも存在した(9)。また今日もなおこうした点は,リプロダクティブ・ライツをめぐる議論において,正当性をめぐる混乱に通じているように思われる。
 第2 の流れは,1972 年に出版されたローマ・クラブの「成長の限界」に代表される,地球的規模での人口爆発の脅威とその資源・環境への破壊的影響,という議論の広がりの中で高まった論調である。とくに途上諸国や欧米貧困層女性への強制的避妊技術,またアメリカで認可されなかった有害な作用のある避妊薬や重大な副作用が確認されていた避妊子宮内リング等が途上国への近代的避妊手段として大量に輸出されたことなどの問題が世界的に問題化した(10)。そしてこうした問題に抵抗する様々な動きが,主として途上諸国の女性達の人口管理政策へ反対する「リプロダクティブ・ライツ」の流れに収斂していったのである。
 1974 年に開催された第1 回ブカレスト世界人口会議では,国連や先進諸国(とくにアメリカ)が,人口調整のために家族計画の重要性を主張した。それに対し途上諸国側は「開発は最善の避妊法である」と主張し,人口問題の解決に経済成長が不可避と主張した。当時,途上諸国が主張していた「新国際経済秩序(NIEO)」がその背景にあった(11)ことはいうまでもない。
 その後1980 年代になると,途上諸国のフェミニスト達に,欧米に端を発した性と生殖に関する自己決定権を柱とする「リプロダクティブ・ライツ」概念が急速に広がっていった。彼女たちは,途上世界の出生率低下は女性自身による出産コントロールにかかっており,それは基本的に女性の社会的・経済的状態次第であるとした。何より女性が自身の身体に関する決定権がない現状からの脱却こそ最重要であるとの主張であった。先進諸国がグローバルな環境保護追求のために途上世界の出生率低下を図り,その目的のために途上世界の女性へ強行してきた避妊・不妊施策への抵抗にほかならなかった。
 この対立関係は1984 年に表面化し,紛糾した。まず第2 回国際人口会議がメキシコシティーで開催された。アメリ国務省国際開発局により「人間の尊厳と家族の尊重を踏まえた真に自発的な人口プログラム」こそ何より重要,との表明があり(12),人口妊娠中絶,非自発的断種,その他の強制的人口抑制策が一括りで批判され,それらを支援している途上国や国際機関に対する財政援助が停止されることになった(13)。一方,オランダのアムステルダムで同年開催された「女性と健康国際会議」では,“Population Control No ! Women
Decide !(人口管理反対! 女性が決める!)”をスローガンに,南北フェミニストのネットワークが集結した(14)。女性の意思や健康を無視した多くの人口政策の現状が報告され,これを契機に女性の地位改善を出生率引き下げの鍵とする捉え方が広まっていった。
 そして当時,欧米フェミニズムの運動は,たんなる中絶の権利獲得から,幅広く世界的な女性の「リプロダクティブ・ライツ」保障を目指すようになった。人工妊娠中絶承認とともに,強制的不妊処置や不本意な人口妊娠中絶への反対を強調することで,一貫して女性の自己決定権が強力に押し出されるようになった。こうした流れが「リプロダクティブ・ライツ」を権利概念として醸成し,主導する形でカイロ会議へとつながっていったのである。
 かくしてリプロダクティブ・ライツは,「リプロダクティブ・ヘルスケアの権利」と「リプロダクティブ自己決定の権利」という二つの原則から構成される(15)ようになった。つまり,リプロダクティブ・ライツはリプロダクティブ・ヘルスの全分野を包含する権利となり,両者は不可分の関係にある。だがその権利の射程は,リプロダクティブ・ヘルスにとどまらない広がりを有すということなのである。
 このリプロダクティブ・ライツを前面に押し出したカイロ会議は,それ以前の人口会議に比較して,当然,大きな変貌を遂げることとなった。どのように変化したかについて,阿藤誠は以下の3 点を指摘している。
 ⑴  個人,とりわけ女性の妊娠,出産の決定権が強調されたことで,旧来のマクロ的,国家的視点が大幅に後退し,政府による人口抑制政策的アプローチがほとんど姿を消した。
 ⑵  家族計画の必要性には立場を異にする二つの論拠がある。旧来はそれが混在していた。子どもの数の制限が個人の生活水準の向上,社会の経済発展につながるとみる新マルサス主義的な考え方,およびこれが女性の健康と権利拡大のために不可欠とみるM. サンガーなどの考え方であるが,カイロ会議では後者が強調された。
 ⑶  人々(とりわけ女性)が出産の決定権を行使する手段として中絶を受け入れる可能性が出てきた。一大中絶論争に発展し,世界的な注目を集めることとなった。
 国連にとっての人口問題とは世界の人口問題であり,したがってそこで至上課題とされたのは,第一義的に途上世界の人口過剰問題の解消ということになる。何よりもその方途として,ミクロレベルでの個々の女性のリプロダクティブ・ヘルスとライツの確立が重視されるようになったのである。こうした世界的な人口論をめぐる思潮と人口戦略の変化は,「人口政策的アプローチ」から「フェミニスト・アプローチ」への転換(16),と捉えられる(17)。