2006-04-06の過去ログから
以下、貼り付けます。
アメリカで初期中絶を事実上合法化することになる裁判を提起したSara Weddingtonという弁護士が,自伝(下記参照)の冒頭で自分の非合法中絶の経験を書いていたことに今になって気が付いた。彼女は自分の体験もあって,中絶合法化の必要性を痛感し,1970年3月3日,テキサス州ダラスの連邦裁判所に「ロウ対ウェイド裁判 Roe vs. Wade」を提起する。これが最高裁まで進み,3年後には,女性のプライヴァシー権としての中絶を許可する有名な「ロウ判決」が下されることになったのである。ロウ裁判を提起した歴史的なこの日について,Weddingtonは次のように回想している。
それは,何でも可能だと思えた日だった。女性たちは頑として様々な制約に異議を唱え,変化を起こそうとしていた。今や中絶は,女性が自らの人生に最も影響を与える事項について意思決定を行う力を有するかどうかという問いを象徴するものになっていた。
この裁判は6月18日のニューヨーク・タイムズの報道で全国に知られ,以後,胎児の権利と女性の権利のどちらが優先されるかを巡って激しい議論がアメリカ全土で巻き起こることになる。アメリカの全国規模のプロライフ組織では最古のAmericans United for Life (AUL)が設立されたのは1971年だが,1966年に故Betty FriedanがNOW(全米女性機構)を設立したときには,早くもERA(男女平等条項)通過と中絶合法化が二大目標に掲げられていたことから,少なくともアメリカでは,中絶問題が「女性解放」の延長線上にあり,女性の運動が先行して保守勢との対立が始まり,ロウ判決を経て激化したのだと考えられる。代表的なプロライフ組織のほとんどが,中絶に反対するのみならず,ERAやNOWにも反対していることからも,その対立の根底にあるのが,必ずしも「胎児生命に対する見解の違い」ではないことが伺われる。