リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

第55回国会 参議院 予算委員会第四分科会 第1号 昭和42(1967)年5月22日

日本の人口問題への見方を問われて

厚生省人口問題研究所人口資質部長篠崎信男氏の回答

 戦後の人口問題につきましては、第一期の転換層が昭和二十七年から二十八年に起きたことは御承知のとおりだと思います。つまり、戦前の多産多死から少産少死に移った時期が、昭和二十七年から三十年の間に転換を遂げたと思います。最初が死亡の減少、引き続いて出生の減少。その後昭和三十二年以来、御承知のとおり少産少死型の人口動態になりまして、これが安定した比率で昭和三十九年まで続きました。しかしながら、その中身につきましては、多々問題があるかと思いまするが、多少、受胎調節をはじめ好ましからざる人工妊娠中絶によりまして、少し少産のほうを実現せしめていたと。ところが昨年のひのえうまで減少を見ましたように、昭和四十年からは第二の変動期を迎えたと、こう判断しております。と申しまするのは、戦後生まれた人口が青少年人口の約七五%を占めておりまして、これはつまり質の転換である。と申しまするのは、戦後生まれた人口で戦後の社会教育、経済教育並びに教育環境に育った人々が、いまやだんだんと育ちまして、そういう形でものの考え方が変わってきた。したがって、表面的な数だけでものを律しては相ならぬという立場を私たちはとっております。と同時に、この労働力の問題でございまするが、昨今若年労働力が不足しているといわれておりまするが、確かにその傾向はございまするが、ただいまの青少年労働力人口の源というのは昭和十九年、二十年、二十一年に出生した者が出ている。それは絶対的に統計的にわからないのです、あの三年間はブランクで。はたしてどのくらい子供が生まれたものやら、どのくらい死んだものやら、それはわかりません。しかしながら、御承知のとおり、昭和二十二年から二十四年にかけましては、ベビーブームが、合計八百三十万でございますが、これが大体中学校を卒業し、一番下がいま高校の三年におりますが、これは、進学率の上昇のため労働市場に出ない。そのために一時若年労働力の不足が訴えられるやにうかがいますが、これが二、三年たちますると、ホワイトカラーになって労働市場に出る。したがいまして、それを過ぎましたあと、昭和二十八年生まれの者が労働市場に出る。それが中学校で出るか、あるいは高校で出るか、大学で出るか、この三段階の道がございます。現在の進学率の上昇を見ますると、どうしても大学を出て出る割合が多いのではなかろうか。そうすると、その問題は昭和の四十七年ごろから本格化して、若年労働力の不足があらわれてくるであろう。と同時に、現在は、大きく見まして、純再生産率が〇・九四でございまするので、やや行き過ぎの感がなきにしもあらず。この状態はハンガリーと日本だけでございまして、昭和三十二年を境として起こっておりまするが、イギリスやフランスはそれを境にいたしまして純再生産率は一をオーバーしている、こういう逆転的な現象がございまするので、やや行き過ぎの傾向は認めざるを得ません。しかしながらその内容は、あの人口過剰に押されて、あの恐怖感から、結局無理をしてそういうことをしたという国民的な努力でございまして、それを今後はどういう形にして適正化していくか。ただし、いまそれをムードといたしまして出しますことはまことに遺憾でございますし、と申しまするのは、私どもが調査いたしました結果、住宅が確かに足りない。それが大きな理由であると思いましたところが、モチベーションは案外違ったところにあるのではなかろうか。そして二DK、三DKの小さな問題だけで子供を生むとか生まないということを決定しているようではないようでございます。その点はもう少し分析いたしたいと思いますが、非常に複雑なモチベーションが若い人々の中にあるようでございますので、この点はもう少し私どもも研究いたしたいと存じておりますが、まあこういう点につきまして、若干、われわれ労働力の本格的な不足は昭和四十七年ごろからあらわれるのではないかと思っております。

溝口明代さんの「仕組まれた『水子信仰』のルーツと展開――『男制』の思想と社会の形成(下)」によると、篠崎は週刊誌で「”水子祭り”のデモで国会をとりまいてやろうと思っている」と発言していたという。