リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

産まない産めない―優生保護法と戦後(上)(中)(下)

2018年の西日本新聞の連載

産まない産めない―優生保護法と戦後(上) 母体を守り「劣悪者」を否定|【西日本新聞me】

2018/9/28 13:18

 障害者に不妊手術を強制したとして、優生保護法違憲性を問う裁判が全国で相次いでいる。〈優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする〉。この一文に始まる同法は、敗戦の3年後に成立した初の“出産管理法”。女性自ら心身を守る「産まない」と、障害者を否定する「産めない」が共存する特異な法で、半世紀も続いた。民主主義下の戦後社会で、なぜ改められなかったのか。生みの親といわれる九州の2人の人物から、話を始めたい。


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 1948年6月の衆院厚生委員会。ショートカットに丸縁眼鏡、35歳の福田昌子(社会党、福岡1区)は同法の提案理由を述べた。

 「母性の健康までも度外(視)して出生増加に専念しておりました態度を改め、母性保護の立場からもある程度の人工妊娠中絶を認め、もって人口の自然増加を抑制する必要がある」

 食料も住まいも不足する中、戦地からの復員で出産ラッシュ。人口抑制策が急がれていた。

 人々の暮らしは悲惨だった。堕胎罪を逃れようと、危険な「ヤミ中絶」を選び、命を落とす女性が少なくなかった。福岡県吉富町出身で東京女子医専(現東京女子医大)を卒業し、九州帝国大(現九州大)を経て福岡や大阪の病院で産婦人科医をしていた福田が、「中絶合法化」による母体保護を訴えるのは自然の流れだった。

 一方、参院で説明に立ったのは熊本選挙区から出た民主党(現自民党)の谷口弥三郎=当時(64)。熊本医専(現熊本大医学部)の産婦人科教授で、後に日本医師会長、久留米大学長も務めることになる医学界の重鎮は、力説した。

 「先天性の遺伝病者の出生を抑制することが、国民の急速なる増加を防ぐ上からも、また民族の逆淘汰(とうた)を防止する点からいっても、極めて必要」

 福田や谷口ら医師8人を含む超党派の議員10人で提出した同法は、全会一致で可決、成立した。

 母体保護と優生政策。「産まない」と「産めない」。2人の思いが、一つの法律に結晶した。

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 人口抑制が目的ならば、中絶の合法化だけで事足りる。そこになぜ、優生政策が入り込んだのか。

 鍵は谷口の言う「逆淘汰説」にある。谷口は48年、国会で発言している。

 「比較的優秀な階級の人々が普通、産児制限を行い、無自覚者や低脳者などはこれを行わないために、国民素質の低下すなわち民族の逆淘汰が現れてくる」。国が中絶を合法化し避妊を勧めると、教養があり生活にゆとりがある「優秀者」は行うが、障害者や困窮者など「劣悪者」は行わない。その結果、後者の人口が増え、国力が落ちる-との考え方だ。

 19世紀後半、英国の遺伝学者が提唱したこの説は、日本でも科学者を中心に急速に広まった。ただ、天皇を神格化した戦前戦中は「産めよ殖(ふ)やせよ」の政策もあり、「神の子」を絶つ政策には慎重論もあった。現に40年にできた国民優生法下では、強制不妊手術は一件も報告されていない。

 抑えられていた優生思想は皮肉にも、天皇人間宣言で国民が「人の子」となった敗戦、つまり民主主義のスタートを機に、一気に噴き出した。

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 「信念の強い立派な姉でした」。福田の弟の妻、光子(90)=福岡市=は振り返る。晩年の福田と一緒に暮らし、75年にみとった。

 東京の国会図書館に勤めていた光子は、子どもの面倒をよく見てくれた優しい姉としての一面だけでなく、図書館で熱心に調べ物をする議員としての姿を覚えている。児童福祉法売春防止法生活保護法…。福祉国家の骨格づくりに関わり、58年に議員を辞めた後も自ら福岡市に設立した女子校(現純真短大など)を運営するなど、女性の権利や地位向上をけん引した。

 しかしそんな福田も、優生思想からは逃れられなかった。優生保護法の成立前年の47年、福田は女性運動の先駆者である加藤シヅエらと社会党案を提出した。審議未了で廃案になったが、その法案にも「不良な子孫の出生」を防ぐ狙いが明記されていた。優生思想は当時の日本人に広く深く、浸透していた。

 「今だから悪い法律だと分かる。でも誰もが生き延びるだけで精いっぱいのあの時期、姉はよかれと信じて法をつくったのだと思う」。姉も自分も、障害者差別だとは気付かなかった。「そういう時代だった」と光子は自戒を込める。

 =文中敬称略

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 【ワードBOX】優生保護法

 1948年施行。精神障害者知的障害者、遺伝性疾患患者、出産が体や生活に影響する女性に、任意での不妊手術や人工妊娠中絶を認めた。また精神障害者知的障害者らについては、本人の同意がなくても、医師の判断で各都道府県の優生保護審査会に申請し、審査を経ての強制不妊手術を認めた。手術は法に基づく指定医が行った。ナチス・ドイツの「断種法」の考えを受け継いだ40年施行の国民優生法が前身。

 不妊手術を受けた障害者らは約2万5000人で、うち本人同意のない手術は1万6475件。最年少は女児が9歳、男児が10歳。強制手術のピークは55年で、1年間で1362件に上った。96年に母体保護法に改正され、障害者に関する差別規定は削除された。今年1月以降、障害などを理由に不妊手術を強制された男女7人が、国家賠償請求訴訟を各地の地裁に相次いで起こしている。

=2018/09/04付 西日本新聞朝刊=

産まない産めない―優生保護法と戦後(中)女性と障害者、せめぎ合った権利|【西日本新聞me】

2018/9/28 13:44

 個人の尊厳や平等を定めた憲法下で、強制不妊手術など障害者の「産めない」を正当化した優生保護法が、1996年まで48年間も続いたのはなぜか。

【関連】産まない産めない―優生保護法と戦後(上) 母体を守り「劣悪者」を否定

 背景には、「女性」と「障害者」という二つの人権のせめぎ合いがあった。

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 法の目的だった戦後の人口過剰問題は、10年足らずで終息した。人工妊娠中絶は年間100万件を超え、48年に4・32だった合計特殊出生率が2・0前後まで落ち込むと、今度は経済成長に乗り遅れぬよう、労働力不足が叫ばれた。

 72年、政府は改正法案を国会に提出する。狙いは二つあった。

 まず中絶要件の一つ、「経済的理由」の削除を求めた。中絶の大半は、多産のため産みたくないといった健常者で、「経済的理由」を拡大解釈して適用されたものだった。女性の「産まない」権利はこれによって保障されていたといえる。

 もう一つは、胎児に障害があれば中絶を認める「胎児条項」の新設。国内では68年から妊婦の羊水検査が可能になり、胎児に一部の障害があるかどうか分かるようになっていた。同法は障害者から「産む」権利だけでなく、「生まれる」権利まで奪おうとしていた。

 この改正案に反対ののろしを上げたのが、女性団体と、脳性まひ障害者でつくる「青い芝の会」だ。

 米国で60年代に始まった女性解放運動(フェミニズム)は日本にも波及し、女性たちは「産む産まないは女が決める」と主張した。

 一方、改正案を新聞で読んだ時の衝撃を、青い芝の会元会長で運動の支柱だった故横田弘は2004年の著書で振り返る。

 〈障害児は母親のお腹(なか)の中から消してもかまわないというのです。(略)これはもう誰がどう言おうが結局は障害者が生きているのは間違いだという生存権否定以外の何物でもありません。(略)ものすごい恐怖でした〉。そして女性団体への嫌悪感も記す。〈万一「障害児を産まない女性の自己決定」が社会に浸透するとしたら-〉

 女性と障害者。片方の権利が、もう片方の権利を縛り、脅かす。それぞれの反対運動を受け、改正案は廃案になった。互いの主張は、平行線のままだった。

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 1983年3月。福岡市にあった市女性会館。反対集会に集った100人余りの女性を凍り付かせたのは、福岡青い芝の会会長中山善人(65)の発言だった。

 「俺たちはあんたたちに殺されてきたんだ」

 前回の動きから10年。政府は82年、再び法改正に動いた。今度は、女性たちは障害者に向き合う。中山のように厳しい意見にも耳を傾けた。

 政府が法案提出を見送った後も、福岡市では女性団体が月1、2回、青い芝の会会員を招いて学習会を開いた。1人暮らしの障害者の家に交代で生活介助のボランティアに入り、福祉の貧困を実感する。

 行き着いた答えは、「中絶を選ばざるを得ない社会状況こそ問題」。女性と障害者が対立する構図ではなく、差別される者として共に闘える-。

 その答えは、女性で障害者という「二重の差別」を受けてきた人々につながった。94年、エジプト・カイロで開かれた国際人口開発会議の非政府組織(NGO)フォーラム。難病の骨形成不全症を患う安積(あさか)遊歩が車椅子で登壇し「障害者の産む自由を奪っている」と同法の差別性を告発した。これを機に、国際社会からの非難という“外圧”が日本にかかっていく。

 96年、優生保護法母体保護法に改正された。強制不妊手術などの優生条項はついに、なくなった。

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 〈障害者の命 尊重願う/不妊手術強制/国を初提訴/宮城の女性〉
 82~83年の反対運動に参加した佐藤瑞枝(61)=福岡市=は今年、強制手術を受けた人たちが提訴するニュースを耳にするたびに、自責の念に駆られている。

 「強制手術の被害者が本当にいる実感がなく、自分たちの問題が片付いたらさっさと引き揚げてしまった。どこか人ごとだと思っていたのかもしれない」

 学習会は自然消滅した。86年の男女雇用機会均等法施行など、現実的な問題への対応に追われ、人権という理念の闘いに力を注ぐ余裕はなくなっていった。

 16日、同市で開く講演会「優生保護法の歴史とフェミニズム」は、佐藤たちが企画した。自分たちの活動を振り返る目的もある。

 =文中敬称略

=2018/09/11付 西日本新聞朝刊=

産まない産めない―優生保護法と戦後(下)内なる優生思想は今も|【西日本新聞me】

2018/9/28 13:46

 〈新出生前診断について、日本産科婦人科学会は臨床研究を終了し、一般診療とすることを決めた〉。3月、こんなニュースが新聞やテレビで巡った。

【関連】産まない産めない―優生保護法と戦後(上) 母体を守り「劣悪者」を否定

 「どんどん僕らが生きにくい世の中になっている」。福岡県内の脳性まひ障害者でつくる「福岡青い芝の会」会長の中山善人(65)は感じた。1976年に会を結成。障害者の「脱施設」や共生社会の実現を訴え、約300人の全国組織の会長を務めたこともある。

 同診断は、妊婦の血液から胎児のダウン症など三つの染色体異常を調べる。2013年4月、学会が認定する15病院で始まり、現在は92病院に拡大。4年半で約5万1千人が受け、陽性判定が出て羊水検査で異常が確定した700人のうち654人が中絶した。

 一般診療になれば、受けられる医療機関はさらに増える。約20万円を払えば、35歳以上はだれでも受けられる可能性が出てくる。

 中山は懸念する。「新出生前診断の登場は、『障害があったら大変』という不安をばらまいた。障害児を産まないために何でもする社会になりかねない」

 もちろん優生保護法があった1996年以前の方が露骨な差別はあった。

 精神障害者座敷牢(ろう)につなぐ「私宅監置」は50年に禁止されたが、病院への隔離収容が進んだ。全国の自治体で「不幸な子どもの生まれない運動」が展開され、兵庫県は羊水検査を公費で負担。障害者の家族の縁談がなかなかまとまらなかったのは、国が「優生結婚」を奨励したからだ。71年の高校保健体育教科書では、結婚の際は相手の4親等の範囲まで病気などの調査を行うよう勧めていた。

 96年の母体保護法への改正で優生政策はなくなったが、人々の差別意識はどうか。卵子提供、着床前診断、新出生前診断…。医療技術の発達で「健康な子」を産むためのさまざまな選択肢が用意されている。一方、財政難や労働力不足を背景に、障害者や高齢者に自立や労働、生産性を求める風潮は強まっている。

 そして2年前。「障害者は不幸。抹殺することが救う方法」と主張する男が相模原市の障害者施設を襲い、入所者19人を殺害した。

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 同じ脳性まひのある福岡県内の女性(61)の思いは、中山とは少し違う。

 「障害があるとはっきり分かっているなら、産まない選択肢があっていい」

 女性は全介助で、公営住宅で暮らす。36歳のとき、障害者グループで出会った脳性まひの夫(62)と互いの両親の反対を押し切って結婚。毎月の生理の処理が大変になり、筋腫が見つかったこともあって産婦人科で子宮と卵管を摘出した。

 子どもがいればと思うことは何度もあったが「2人じゃとても育てられない」と自分を納得させた。当時、市のヘルパー派遣サービスはなく、ボランティア頼みだった。今も派遣時間が足りなかったり、車椅子に乗ってバス停で待っていてもバスに素通りされたりする。外出先で奇異な目で見られるのも相変わらずだ。

 「この世が生きづらいことは、私が一番知っている。私のように意見を言えればいいが、もし言えない障害だったら…。私が母親なら、こんな社会に放り出すなんてできない」

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 新出生前診断については、「命の選別だ」との声が上がる一方、日本世論調査会が6月に実施した面接調査で「81%が容認」との結果が出ている。

 生命倫理に詳しい立命館大教授、松原洋子によると、胎児の障害を理由にした「選択的中絶」は、欧米では、実際に心身に負担がかかる女性の自己決定権と位置付けられ、広く浸透している。米英のように出生前診断に公費を出す国も少なくない。現に、国連の女性差別撤廃委員会は2016年、選択的中絶の合法化を日本政府に勧告した。実際には、優生保護法の時代から、中絶要件の「経済的理由」を拡大解釈して選択的中絶は行われてきたが、権利として明確にうたうべきだ、ということだろう。

 松原は「出生前診断はもはや止められない」と世界の潮流を認める。ただ、日本では、女性の自己決定を支えるルールも情報も不十分だ。「国の『介入せず』の姿勢が、結果として優生学的効果を誘導している。国は、自己決定の名の下で、障害者を排除することを女性に押し付けてはいないか。障害者の人権を守りながら、医療技術をどう使っていくのか、トータルな制度設計をすべきだ」と提起する。

 優生政策は消えたが、優生思想は内にこもり存在し続けている。野放し状態の「自己決定権」にどう向き合うか。より自覚が必要な時代を、私たちは生きている。 =文中敬称略

=2018/09/18付 西日本新聞朝刊=