リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

1970-80年代における優生保護法改正論議の再検討―日本母性保護医協会の動向から

社会司法史学会第37回大会プログラム

1970-80年代における優生保護法改正論議の再検討―日本母性保護医協会の動向から

自由論題報告(横山尊) 10 月 28 日(日)9:00-9:45 【第 5 会場】

1970-80年代における優生保護法改正論議の再検討―日本母性保護医協会の動向から
横山尊(九州大学大学文書館百年史学編集室テクニカルスタッフ)


はじめに
 本報告は、1960 年代から 80 年代の優生保護法(以下、優保法と略すことがある)改廃論争における日本母性保護医協会(通称、日母)の動向を対抗勢力やマスメディアの関係も絡めて追うことで、同論争と新優生学の展開のあり方を再考するものである。日母は、1949年に優生保護法(1948年成立)12条に基づく指定医の団体である、同法を通過させた産科医で、参議院議員熊本県医師会長、日本医師会長を歴任した谷口弥三郎が設立した。
 2011年7月に日本産婦人科医会(旧日母)は、2009年までの 10年間、胎児の異常を診断された後、人工妊娠中絶したと推定されるケースが前の 10 年間に比べ倍増したとの報告をまとめた。現在のところ、1970 年代から 80 年代の優生保護法改正は阻止されたのに、現在まで至る出生前診断などの技術はなぜ進行したのか、あるいは新優生学はいかなる人々がどう担って推進させてきたのかという分析は十分ではない。新優生学の行政的推進には、例えば、土屋敦の「不幸な子どもを生まないための運動」を論じた有益な分析があるが、同運動は 1970 年代には収束し、必ずしも現代につながらない。
 その根本的原因は、日母の動向の分析が不十分な点にあると考えられる。近年になって、例外的にディアナ・ノーグレン『中絶と避妊の政治学』(青木書店、2008年、原2001年)が、日母の動向にも医報も活用しつつ目を配っている。しかし、筆者は、日母を 1970年代以降の新優生学の中心的な担い手とみなし、その観点から優生学史における位置づけを考察することが必要だと考えている。本報告は基本的に日母の医報『母性保護医報』(1974 年 1 月から『日母医報』、以下、「医報」と略し、出典、掲載年月は本文中に記
す)を活用してその動向に密着する。
 優保法改廃問題では女性団体や障害者団体が中絶条項撤廃に反発し、優保法自体を批判したことは明らかだが、本報告は日母が、一見それらの運動に同調するかのような動きを見せつつも、いかに現実政治のなかで「優生」の論理と技術を温存し展開させていったのかという点を明らかにしていく。その問題の解明こそ、1970 年代から 80 年代に優生保護法改正が阻止され、その際、優生保護法がかつての国民優生法との「類似」性からその「悪」が批判されたはずなのに、出生前診断のような新優生学的な技術の運用は既成事実化し、「優生社会」となっている現在の様相を理解するうえで不可欠だからである。


1.1960年代の優生保護法改正運動と日本母性保護医協会
 本節では、1960 年代の優保法批判を通して、同問題に対する日母の基本姿勢を示す。1960 年代前後から生長の家は優保法による経済的理由を目的とした中絶の濫用を批判した。1963 年のサリドマイド手記事件を機に、週刊誌、新聞などマスコミで産婦人科医による中絶の濫用が批判され、優保法の中絶条項修正が支持された。
 これを受け、厚生省の若松栄一公衆衛生局長は 1963 年7 月30 日に日本母性保護医協会の幹部の来訪を要請し、優保法の運営や「中絶の濫用」を難詰した。このやりとりを紹介した医報158 号には、「優保法改正問題が週刊誌のつまらぬ記事がきつかけで再燃するとは馬鹿げた話だ」とある(5 頁)。厚生省の申し入れを受けた日母は全国理事会と全国支部長会議を、9 月 15 日に開いた。そこで、厚生大臣、文部大臣に逆に要望書を提出することになった。厚相には、①指定医の医療機関に限り「優生保護相談所」の設置を簡素化する、②妊娠中毒症不妊症、未熟児の予防治療の行政指導機構に指定医を参画させる、③
「民族の優生向上」のため精神科医、刑務所医官の協力で「優生手術」の「実績」を向上させることを求めた。文相には、中学、高校、社会教育で「正しい性教育性道徳講座」を設置することを求めた(医報 159 号、1963 年 9 月、1-2 頁)。①は認められたが(松井金吾「人造りと優生保護法」医報 168 号、1964 年 5 月、1頁)、各地の指定医が相談所を挙って設けたようには見えない。厚相、文章への要望書からは、優生保護法における性教育も視野に入れた優生思想の貫徹、そこにおける指定医の参与を求める構想が窺えよう。
 結局、優生保護法改廃論議の発生を、日母は生長の家ら宗教団体やその影響を受けた政治家の暴挙の産物で軽薄なマスコミが輪をかけたものとみなしていた。そのため、日母は優保法改正の必要を認めず、指定医の利権の擁護に努めた。そして日本医師会とも連携し厚生省とも討議を重ねて圧力をかけ、優保法の改廃の阻止を図った。さらに、おぎゃー献金のようなメディアキャンペーンを活用して、優保法改廃の世論沈静化のための論点のすり替えとマスコミの懐柔も行った。ただ、どうしても改正するなら、優生保護法の「民族の優生化」という論理こそ最優先させねばならないという立場だった。この日母の姿勢は 80 年代の改正論議までほぼ一貫している。


2.1972年の「優生保護法改正案」提出前後
 1967年から優生保護法改廃期成同盟が議員を国会に送り込み、1970年3月の日母の医報238号には、生長の家カトリックの宗教団体が、衆議院選挙終了後、2 月上旬には「生長の家政治連合」の総会で、今国会に改正案の提出を決議したことを伝えた(1 頁)。
 ノーグレンは、「優生保護法改正の議論が抑えられないと知った彼らは、日母の評判を救い、改正案の文言のなかに何らかの制御手段を残すため」、生長の家と「一九七〇年から一九七二年にかけて相当な交渉を重ねた末に、両者は折り合いをつけた」と指摘する(前掲書、112 頁)。この交渉の具体的内容を示す史料は管見では見当たらないが、1972 年改正案の内容を鑑みれば事実だろう。
 1970年8月に日本医師会は「優生保護対策について」という見解を発表した。日医と日母の連携関係はこの時期には常態化し、日医の産婦人科医はそのまま日母の会員だった。ゆえにこの見解は事実上の日母見解である。内容は、(イ)合法的中絶理由について、妊娠中毒症不妊症、未熟児の予防治療などの「精神身体医学的理由」を反映させること、(ロ)「先天異常児発生の予防対策」としての胎児条項の挿入、(ハ)優生手術対象の「別表」の再検討、(ニ)「逆淘汰」防止のため優生手術の増加、(ホ)「優生相談所及
び受胎調節の普及」の運用強化であった。指摘された「現行優生保護法の問題点」の内容は、1 節でふれた 1963 年 9 月の日母による厚相への要望と近似している。
 優生保護法の改正案の国会上程は 1972 年 5 月に確実となった。その改正案は中絶理由の「経済的理由」は削除されていた。この部分は日母の意に反したが、それ以外は「優生保護対策について」で提示された見解が全面的に反映された。改正案は、5 月 23 日の閣議決定を経て、26 日に衆議院の社会労働委員会に付託され、30 日の同委員会で、提案責任者である斉藤厚生大臣が別載の提案理由の説明を行った。しかし、その後、延長国会は空転し、6 月 16 日までに審議されずに経過し、結局次期国会での「継続審議」ということで落着した。
 実は、同法案は、日母にとって、72 年改正案は通過しないに越したことはないが、通過してもさほど痛痒は感じないように出来ていた。6 月 6 日の『朝日新聞』の「天声人語」は「改正案を作った厚生省に聞くと、条文を純医学的にしただけで、中絶を減らすとか人口政策的な意図はない。もともと優生保護のための法律で、中絶自由化の法律ではないし、従ってまた、改正後、実際に中絶がむずかしくなることもない、というのだ」と伝えた。「天声人語」は「驚いた。そうだとすると法改正にまつわる世間の不安や賛否両論は、すべてが誤解か見当違いになる」、「なぜ政府が疑惑や誤解を誘うような条文いじりをしたのか。わからない」と評した(1 面)。
 さらに、日母は、改正案提出前後に「ひとつの新らしい傾向として『経済的理由による中絶が今の日本には絶対に必要である』とする主張が極めて強い」ことを見出した。医報は「この意見が今回の改正案を正しく批判しているか否かはさておいて、家族計画団体、遺伝学者、人口学者等“各方面”から一斉に声があがり、庶民の投書と共にマスコミが繰り返してその主張を報道していることは、今迄と全く逆な現象であると共に、“世論の動向”をこの機会に確認したものといえる」と評した(医報265号、1972年6月、1頁)。また、ウーマンリブのような女性団体、障害者団体も批判の声を挙げた。ここで重要なことは、改正案反対の矛先は、日母や日医にあまり向かわなかったことだ。その中には日医と日母が深く関与した胎児条項の批判も含まれていた。それでも専ら生長の家、厚生省や自民党が批判を受けていた。
 日母はこの事態を恐らく内心で喜び傍観していた。1973 年 5 月の医報 276 号は、5 月 19 日付の『朝日新聞』が「宗教団体の票に基づく議員の圧力」による「安易な改正案を取り下げよと主張」したのを「極めて正確な解説」と評した。その上で、「本会は従来から、『法の手直しは慎重且つ全面的に検討すべきものであり、安易な改正は絶対反対である』との一貫した態度を持しているが、特に昨年来の改正案については、真に本法を必要とする人々の叫びを聞くために、表面上静観の態度をとって来た」と述べた(2 頁)。日母は、改正案提出前はマスコミが捏造した「世論」をあれほど批判したが、日母はそれを自らの政治力に取り込む方向へ転換した。
 改正案では、経済条項の削除だけでなく、胎児条項も批判されていた。1973 年 5 月に日本児童精神医学会が「優保法改正は身障者の差別・抑圧策」として反対声明を出した。そこでは、胎児条項も「障害者に対する差別と抑圧をさらに胎児期にまでさかのぼって系統的に強めるもの」と批判した。同会は、現行優生保護法も「障害者に対する差別思想によって貫徹」されており、優生保護法「改正」(案)を廃案せよと説いた。日母はあろうことか「医学関係の団体が優保法改正反対を積極的に打ち出したのははじめてなので注目されている」と好意的に評価した(医報 277 号、1973 年6 月、10 頁)。要は、優保法改正反対を唱えたという点で、敵の敵は味方なのだ。
 日母は、胎児条項を批判されたが、同団体が貫徹してきた優生思想を放擲する意思など全くなかった。1972年11月29・30日に日本家族計画連盟主催の昭和47年母子保健・家族計画全国大会で、木下正一常務理事は「本会の見解」としてこう述べた。「改正案どおりに法律の一部分が改正されても、解釈のし方では、人工中絶がそれによって著しく抑圧されはしない」。「本会はこのような考えに拠って、今回の一部改正に対して積極的な反対をしなかった」。しかし、「本会」は「優保法の改正については、いわゆる抜本的改正を幅広く慎重に行うことが、民族優生のために必要であるとの基本的態度を変えることは全く考えていない」、と(医報 272 号、1973 年 1 月、5 頁)。結局、日母の優生思想をめぐる枠組みは60年代から一貫していた。その上で、優生保護法の優生思想に批判的な団体でも、経済条項の削除に反対すれば、好意的に評価するという姿勢をとった。それが以
後の日母の基本姿勢となった。
 1974 年に、優生保護法案は、突如として 5 月 14 日の自民党の総務会に提出され、胎児条項を削除をした上で国会を通すという党議が決定された。生長の家系議員の主導であり、かつ障害者団体の反発を考慮してのことであろう。この間、日母と呼応し、日医の武見会長の強硬な反対声明を行なった。28 日の参議院社労理事会では、日母-日医の後押しを受けた自民党の丸茂重貞議員(1963 年8 月から日母顧問)と、玉置和男議員間で激しい論争となって、委員会開催は不能に陥った。結果、優生保護法は廃案となった。6 月には参議院選挙が実施された。この選挙では、自民党内における生長の家系議員と日母の応援
する丸茂重貞の票の差によって、優保法改正の命運が決まると目された。結果は、1974年7月の医報290号で大々的に「丸茂議員圧勝 現職議員では第二位」と報じられた。日母の勝利だった。日母は選挙を通して会員の結束を確信したのか、あるいは結束の維持を図ったのか、医報などで「日母ファミリー」という表現が目につくようになった。


3.1982-83年改正案をめぐって
 生長の家の指導者、谷口雅春は中絶法改正の呼びかけを1981年に再開した。1982年3月に日本医師会の会長を長期にわたり務めた武見太郎は交代し、同じ頃、日母が選挙を応援した丸茂重貞は長期入院をした。1982年3月15日には参議院予算委員会で、生長の家系の自民党議員、村上正邦、玉置和郎が、総理大臣、厚生大臣、文部大臣らに優生保護法の改正、特に 14 条の経済条項の削除を強く迫り、厚相は改正を示唆する発言をした(医報384号、1982年4月、6頁)。5月の医報では、厚生省事務局も大臣の回答の線に沿って作業を開始し、中央優生保護審議会でも強行改正論が優勢と伝えられた(医報 385 号、1982 年 5 月、2 頁)。1982 年の 6 月 26 日の日母の医報「経済的理由を削除か…優生保護法空前の危機改正案提出せまる」と見出しのついた「号外」を発した。
 日母の優保法改正の反対の論理として注目すべきは、「不良な子孫の防止を計る」という観点から、経済条項を擁護した点である。日母は、優生保護法は、優生手術と人工妊娠中絶と家族計画の三本の柱から成り立っている」のに、「改正論者はいたずらに人工妊娠中絶のみを取り上げている」と批判した。そして「胎児適応のない現在経済的適応は不可欠」とした。人工中絶を希望する理由に「重症奇形児出生のおそれ」が多く挙がり、妊娠初期の風疹感染による「重症心身障害児の出生のおそれ」など「経済的圧迫により母体の健康を著しく害するおそれがあるもの」と判断せざるを得ないとの論拠からだった。これは、1970年代に経済条項を削除する代わりに、胎児条項を挿入しようとした姿勢と共通している。さらに 1980 年代は人類遺伝学が一層進歩すると同時に、胎児スクリーニングの技術が一層進展し、医療現場に導入されていた事情もあった。日母は「優生保護法の目的は憲法の人権尊重の趣旨にそった母体保護並びに不良な子孫の防止を計ることが目的である」ことを重ねて強調し、出生前診断が「優生」の論理を体現している点を肯定的に捉えた(以上、医報389 号、1982年9 月、1-2 頁)。結局、同団体の優生思想は 80 年代にも本質的な変化はない。
 しかし、80 年代の日母は丸茂重貞という国会での強力な代弁者を欠いており、70 年代ほどの政治力を発揮することは難しかった。丸茂は 1982 年7 月23日に蜘蛛膜下出血により死去した。また 70 年代には、日本医師会と日母の連携関係は、武見太郎会長が優保法改正反対に協力的だったこともあり堅固だったが、80 年代には、武見会長の交代に伴いほころびが見られた。それでも、日母は攻勢の動きを見せた。
 1982 年 12 月 23 日には、日母と東京母性保護医協会の幹部 12 名は抗議団として厚生省を訪れ、三浦公衆衛生局長と「激論」したという(医報号外、1982 年 12 月 25 日)。70 年代に比して政治力が低下していた日母にとって幸運だったのは、経済条項の撤廃について、女性団体や障害者団体などが激しく反対運動を起し、マスコミの論調も優保法改正への批判姿勢が明確だったことである。医報388号の「消息子」は、「6月20日朝日新聞の記事『中絶是か非か』が導火線となって、マスコミ論議が大きく展開」したと捉えた。また、「テレビ朝日のモーニングショー(6 月 22 日)では「日母役員が今までに何回となく煮え湯をのまされてきたこの番組も、今回は提案者の村上議員を除いて殆どが中絶反対」だったと伝えた(4 頁)。
 1982年12月の医報392号は「今まで地域的であったり、一部の有志による運動であったものが、この一ヵ月の間に大きな動きとなり」、1982年10月20日に「日本女医会や日本助産婦会をはじめ 12の有力な婦人団体が優生保護法「改正」阻止連絡協議会を結成」したと伝えた。また、11 月 4 日に、キリスト教団体を多く含む「中立系」の団体、日本婦人有権者同盟などが「七婦人団体議会活動連絡委員会」を結成した。
 さらに、東京、大阪、京都の 45 のウーマン・リブの諸団体は「’82 優生保護法改悪阻止連絡会」を渋谷・山手協会で開催した。日母医報は「協会の三階席までぎっしりと埋めた参加者の熱気でギッシリと埋めた参加者の熱気でもの凄いパワーを感じさせた」と評した。壇上の女性たちは、「産む産まないは女性の自由」、「性を管理することは右傾化の始まり、戦争のため兵士を私たちに産ませようというもの」、「ヤミ中絶が増えて母体が危険にさらされる」などの主張を行なって、「騒然とした会場の中で特殊な雰囲気に包まれていた」という(以上、1-2 頁)。
 ただし、医報は掲載していないが、「’82 優生保護法改悪阻止連絡会」などウーマン・リブの団体は障害者団体などとも連携して優生保護法の優生思想自体を批判していた。同連絡会の「優生保護法改悪集会基調報告」では、「堕胎罪が産ませるための手段なら、国民を優生と劣生に選別し、差別したのが、国民優生法」であり、同法の「優生思想は日本民族を優生、アジアの他民族を劣生とみなす民族差別を拡大し、侵略のための戦争を正当化」したとする。そして 1948 年の優生保護法は、「食糧難、住宅難、混血児の出生」解決のため、「国民優生法の優生思想はそのままに、母性保護と称して、条件付で中絶を合法化し、女に中絶させることでこれらの社会矛盾を解消しようとした」と捉えた。そうした歴史観のもと、報告は「優生・劣生と人間を差別選別し、その思想にもとづいてのみ女に中絶させる優生保護法そのものを撤廃させたい」と主張し、村上、玉置、中曽根、二階堂などの「生長の家政治連合国会議員連盟」が「『二大悲願』である憲法改悪と優生保護法改悪に全力をあげることを決議」したことを攻撃し、「厚生省への抗議文」も提出したという(溝口明代ら編『資料 日本ウーマン・リブ史Ⅲ 1975~1982』松香堂、1995 年、195-196 頁)。
 優生思想の歴史を、厚生省はまだしも、村上や玉置のような生長の家系の議員に背負わせるのは状況認識としておかしい。80年代に至っても優生保護法にみられる優生思想を至高の理念として信奉したのは日母のほうである。しかし、当時の優保法批判は全般的にその点はあまり見えていなかった。
 それどころか、ウーマン・リブにとって日母は女性団体と同類にすら見えたようである。日母のほうもリブが優保法に反対しさえすれば、好意的にその活動を捉えることができた。1983年 2月の医報 394号は、「優保法『改悪』絶対反対と婦人団体 各地でわきあがる反対の動き」として異例の 1頁グラビアを掲載した。内容は、「’82優生保護法改悪反対集会」会場前と「改悪絶対ハンターイ」と叫ぶ婦人団体、’82優生保護法改悪阻止連絡会作成のパンフレット、講演会「人工妊娠中絶を考える」(日本性教育協会主催)で話し合う講師と参会者の様子だった(2頁)。
 政治状況は日母に好転した。優保法反対の動きは与党議員の中にも広がり、1983年に 3月 23日には、自民党内に「母性の福祉を推進する議員連盟」が結成された全国各自治体の議会で、優生保護法改正反対の決議が集まった。日母にとって状況の好転が決定的になったのは、1983年 6月 26日投票の参議院選挙の結果だった。この選挙で、日母は、沖縄県医師会長だった大浜方栄を自民党候補として応援し、大浜は12位の高順位で、同じく日母、日医の推薦を受けた 13位の石本茂(日本看護協会)と共に当選した。他にも、元厚生事務次官の曽根田郁夫など日母推薦候補 10数名が当選した(医報399号、1983年 8月、1頁)。一方、この参議院選挙で生長の家は敗北した。1983年 8月の医報 400号は、生長の家政治連合は解散することが大きな見出しで伝えた。以後、1996年の母体保護法への改正にいたるまで優保法改正案は国会に上程されなかった。


おわりに
 本報告の内容から、1970年代から 80年代における優保法改廃論争において、日母が、したたかな戦略性と政治力をもって、1952年改正時の同法の枠組みの堅持と擁護に務めて成功したことは明らかである。1960年代から 80年代に到った論争の真の勝者は日母に他ならなかった。
 そこでは、中絶規制反対の論理として新優生学の促進が浮上するという構造が存在した。さらに、日母は 70-80年代の同法の「不良な子孫」の出生防止という理念の批判も潜り抜け、その理念に基づいた出生前診断の開発を現在まで続けてきたのである。結果的に、一連の論争、そして同時期の優生思想と政策、生殖医療の先端技術との連関は、日母という存在の分析なくしては全く理解不可能であることが、本報告の内容から理解できたはずである。
 一方で、女性団体や障害者団体による 70~80年代の優生保護法改正反対運動は、改正を提議した生長の家自民党を女性や障害者に対する国家悪と一からげにして胎児条項や優生思想の歴史の責任まで負わせ、日母という見るべき存在をみなかった。その代償は優生思想を論じる観点からすれば、残念ながら大きかったと評さざるをえない。
 まず、優生学の「悪」を批判して優生保護法改正は阻止されたのに、新優生学の産物である出生前診断は現在では技術として確立され定着している状況は進んだことの要因の政治的メカニズムの解明はかなり遅れてしまった。女性団体や障害者団体が胎児条項挿入に際して日母に抗議を行なったのは、ようやく優生保護法母体保護法に改正された後になってからのように見える。
 さらに、運動家や一部の歴史家が80年代の優保法改正反対の政治的レトリックのための視点を過去に遡及させたことは、優生学運動や優生思想の歴史研究における強制史観を不必要に根強いものにしてしまったのではないか。優生学のアクターは、民間セクター主体で多様にして内部対立や権力交代をはらんだものだったが、強制史観は優生学の担い手をナチズムとの近似性を強調しつつ国家権力の抑圧性のみに帰してしまい、その動態理解の多様性を平板なものにして、過去への正しい理解を逆に妨げてしまったように見える。

横山尊著書 『日本が優生社会になるまで』勁草書房