抜き書き
シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー共著
惠愛由訳、菊地夏野解説 人文書院 2020
pp.34-5.
女性たちのストライキという新たな波に勇気づけられた99%のためのフェミニズムは、実践的経験の苦しみから生まれ出ていながら、理論的内省に支えられている。新自由主義がジェンダーの抑圧のかたちを新たに作りかえていくのを目の当たりにした私たちは、女性やジェンダーによる規定に準じない者たちが理論上持っている権利、またこれから勝ち取れる見込みのある権利を実現するには、まさにその権利を形骸化させている根底の社会構造を変えるしかないのだと考えている。たとえば中絶の合法化は、それ単独では貧しい女性たちや労働階級の女性たち医とってほとんど何の益もなかった。彼女たちには費用を払うお金も、処置ができる病院を知る手立てもなかったからだ。本当にリプロダクティブ・ジャスティスを実現しようとするならば、医療は誰に対しても無料かつ非営利なものでなければならない。それは医療の場において、人種主義、あるいは優生学的な慣例が廃止されなければならないのと同様にである。
pp.35-6
99%のためのフェミニズムは徹底的な、広範囲に及ぶ社会変革を追い求めていく。端的に言えば、それゆえにこの運動は分離主義的ではありえないのである。私たちはむしろ、99%の人々のために戦うあらゆる運動と手を取り合うことを提案する。たとえば、環境的公正、質の高い無償教育、手厚い公共サービス、低コストの住宅、労働者の権利、無料の国民皆保険(ユニバーサル・ヘルスケア)を求めて闘う者たちと。あるいは、人種主義のない世界、戦争のない世界を求めて闘うものたちとも。そうした運動と手を取り合うことをつうじてしか、我々を抑圧する制度や社会関係を解体する力と展望を得ることはできないのである。
pp.46-9
多くの人々は、資本主義社会が本質的に階級社会であることを知っている。この階級社会派、ごくわずかな少数派が、賃金を得るために働かなければならない多数派を搾取することによって私的利益を得ることを認めている。一方であまり理解されていないことは、資本主義社会は本質的に、ジェンダー的な抑圧の源泉でもあるということだ。決して偶然とは呼べないほど、セクシズムは階級社会の構造そのものにかたく編み込まれているのである。
たしかに、資本主義が女性の従属を生み出したわけではない。女性の従属は過去のすべての階級社会においてさまざまなかたちで存在していたのだ。しかし資本主義は、新たな制度的構造に支えられた、非常に「現代的」なセクシズムのかたちを打ち立てた。このセクシズムの特徴は、人間の形成(the making of people)と、利潤の形成(the making of profit)を分けることだ。また、前者を女性に委ね、それを後者の踏み台にすることだ。この一手をもって、資本主義は女性に対する抑圧のありかたを作りかえ、それと同時に全世界のありかたをひっくり返してしまったのである。
人間を育む仕事が実際どれほど重要かつ複雑であるかを思い起こすとき、資本主義がしたことの倒錯性がよくわかる。この仕事は生物学的な意味において生命を生み、また維持しているだけではなく、私たちの労働する能力——マルクスが呼ぶところの「労働力」だ――を生み出し、持続させているものでもある。それはつまり、人々に「正しい」態度や考え方、価値(能力・適性・技術)を身につけさせることを意味する。そう考えれば、人間を育む仕事が供給してくれるのは、人間社会全体のための、とりわけ資本主義的な生産のための、基礎となる物質的・社会的・文化的必須条件だと言える。この「仕事」なしには、生命や労働力が人間に宿ることはないだろう。
私たちは、この必要不可欠な広範にわたる活動全体を社会的再生産と呼ぶ。
資本主義社会においては、社会的再生産の中枢的な重要性が隠蔽され、否認されている。人間を育む仕事はそれ自体の価値を認められていないばかりか、利潤を形成するための手段にすぎないとされているのだ。資本は、金銭がすべてを動かすとうたっていながら、社会的再生産には限界まで対価を支払おうとしない。そしてそれゆえに、社会的再生産労働をする人々を従属の位置に追いやっているのだ。この従属とは、資本所有者への従属というだけではない。それは、社会的再生産の責任を他者に押し付けることのできる、有利な立場に置かれた賃金労働者に対しての従属でもある。
ここでいう「他者」とは、大多数が女性である。なぜなら、資本主義社会では、社会的再生産の営みはジェンダーという基盤の上にあるからだ。つまり、その営みはジェンダーロールに依存し、ジェンダー的な抑圧を固定化させる。社会的再生産は、それゆえにフェミニストの問題でもある。