リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

射精における「責任」とは一体なんなのか? 社会と個人の両側から考える性欲のこと

新潮社フォーサイト 書評 ガブリエル・ブレア『射精責任』(太田出版) 執筆者:清田隆之 2023年10月14日

とてもまっとうな書評だと思いました。
射精における「責任」とは一体なんなのか? 社会と個人の両側から考える性欲のこと:清田隆之 | ブックハンティング | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト

「責任をもった射精」とは何か、真摯に向き合って考えるべき時がきた(ViValenty / Shutterstock)


「女性の望まない妊娠にはそもそも男性の『射精責任』がある」――発売前からSNSで大議論を巻き起こした翻訳書『射精責任』。恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表として、恋愛の中で浮かび上がる男性性の危うさについて問題提起してきた清田隆之氏は、「男性も自分たちの生殖や性欲と向き合うべき」だと評価する。


説得的かつ啓発的な“性教育のハンドブック”
 俺たちの“おちんちん”は甘やかされすぎている──。そう痛感せざるを得ない読書体験だった。折れないよう、萎えないよう、縮こまらないよう、社会全体でヨシヨシとあやし、「わかるよ」「仕方ないよ」「そういうものだもんな」と、不都合なことは考えず気持ちよく射精できるような風潮や仕組みがすっかり出来上がっている。

 話題の書『射精責任』(ガブリエル・ブレア=著、村井理子=訳、齋藤圭介=解説/太田出版)は、そのインパクトしかないタイトルもあって発売前からSNSで話題を呼んだ一冊だ。刊行直後に手にする機会を得たが、一読して意外な印象を持った。例えば未成年の少女がトイレで出産をして死体遺棄の罪に問われたり、多胎育児で追いつめられた母親が子どもを虐待死させてしまったり……そういったニュースが世間を騒がせるたび、「父親はどこに行ったんだ」「男親にも罪はあるだろ」という声が一定数わき起こる。読む前は、そういった事例を紹介しながら妊娠や子育てをめぐる男性の責任について再考していく本なのかなと勝手に想像していたが、その内容は思い描いていたものと少し違っていた。


 デザインこそド派手だが、本書は極めて説得的かつ啓発的に書かれた“性教育のハンドブック”とでも言うべきおもむきだ。主として異性愛者でシスジェンダー(出生時に割り当てられた性別に違和感を持つことなく暮らせている人)の男性に向けて書かれており、生殖のメカニズムや避妊のハウツー、中絶をめぐる社会状況や妊娠・出産におけるジェンダー格差など、28個の提言が学説や統計に依拠しながらわかりやすく展開されていく。

 そこで語られるメッセージは実直にしてとてもシンプルだ。いわく、望まない妊娠の原因はすべて男性にある、女性の膣内に精子を放出しなければ妊娠は起こらない、だから男性は(双方が妊娠を望んでいる場合でない限り)絶対に避妊をするべきだ──という主張に本書は貫かれている。

 この本はアメリカで書かれたもので、背景にはアメリカ社会を二分する“中絶論争”がある。それは胎児の生きる権利を主張し、中絶を認めない立場の「プロライフ」派と、女性が自らの生き方を選択する権利を重視し、中絶に賛成の「プロチョイス」派による争いで、これは大統領選挙における重大な論点(保守的な共和党がプロライフ寄り、リベラルな民主党がプロチョイス寄り)のひとつにもなっている。

 その概要は巻末にある齋藤圭介さんの解説にまとまっているのでぜひ参照してもらえたらと思うが、〈妊娠中絶の99%が望まない妊娠が原因〉という中にあって、胎児の生命と女性の選択ばかりに議論が偏っている状況はどう考えてもおかしい。真に追及すべきは、望まない妊娠の原因を作り出している男性の射精責任ではないか──と、現状の中絶論争を根本から問い直そうという情熱(怒り?)に満ちている。中絶手術がどんどんアクセスしづらいものになっているアメリカにおいて、これは極めて切実な提言なのだ。


コンドームをつけたがらない男、責任を求められる女
 では、中絶が(一応は)認められている日本の場合はどうだろうか。アメリカに比べれば中絶という選択肢にアクセスしやすい社会であることは確かかもしれないが、だからといって他人事でいられる問題ではもちろんない。厚生労働省が発表している「衛生行政報告例」によれば、2021年度の人工妊娠中絶件数は12万6174件となっており、その原因のすべてではないにしても、望まない妊娠が毎年かなりの数発生しているであろうことは容易にうかがえる。

 私は恋バナ収集ユニット「桃山商事」のメンバーとして、これまで1200人以上の恋愛相談に耳を傾けてきた。その中にはパートナーが避妊をしてくれないことに悩む女性の声も少なからず存在し、威圧的な態度に気押されてゴムなしセックスに持ち込まれてしまった人もいたし、性行為の最中にこっそりコンドームを外す「ステルシング」の被害に遭った人もいた。アダルトビデオの世界では「ナマ中出し(男優が避妊具をせずに膣内射精すること)」というものが人気のジャンルになっているし、違法な売買春の現場ではゴムなしの挿入行為が高値で取り引きされている。

 生理が遅れていると告げた直後に連絡が取れなくなった彼氏の話は何度も聞いたし、妊娠発覚後、中絶費用として10万円を手渡し、「これで責任は果たしたからね」という最低の言葉を残して去っていった男性もいた。世間でもそういう事例が“あるある話”のように存在しているにもかかわらず、性感染症にかかった場合も、望まない妊娠が起こった場合も、その対応や責任を求められるのはほとんど女性だ。孤立出産による死体遺棄の事件で父親が罪に問われることはまずないし、「なぜ避妊させなかったのか」「なぜそんな男と関係を持ったのだ」と女性ばかりが責め立てられる風潮もいまだに根強い。かと言って緊急避妊薬などの対応策がきちんと整備されているわけでもないし、それらを未然に防ぐための性教育なども十分に行われているとは到底言い難い。この理不尽に満ちた状況を思うと、本書の提言がますます重く響いてくる。

 そこで改めて思う。性行為の際にコンドームをつけることは、そもそもそんなに難しいことなのだろうか。「男性は避妊をすべし」というメッセージ自体は極めてシンプルなものなのに、なぜこうして書籍一冊分の言葉を費やして訴えられなければならなかったのだろうか?


「責任」という言葉が意味するもの
 本書の原題は「Ejaculate Responsibly(責任を持って射精せよ)」となっているが、この「Responsibly」について考えてみるとその意味がよりクリアに見えてくる。言葉の成り立ちをたどると、「response(反応・応答)」+「able(できる)」の副詞形ということで、「応答することができる」が責任の本質的な意味となる。射精の結果として発生し得る諸々にresponseすることができるのか──本書が突きつけているのはそのような問いではないか。

 生殖のメカニズムはどうなっているのか、男性の生殖能力はどの程度なのか、膣内に放出された精子の生存期間はどのくらいなのか、妊娠が女性の身体やキャリアにどんなリスクをもたらすのか、避妊の難易度は男女でどれだけ差があるのか……そういうことを本当に理解した上で射精してきたのかと問われたとき、胸を張ってYESと答えられる男性はどれだけいるだろうか。

 本書を読むと、避妊をしないことがいかに無責任な行為であるかを痛感させられる。「気持ちよくない」とか「面倒くさい」とか、「持ち合わせていない」とか「ムードが壊れる」とか、「相手がOKした」とか「外に出せば大丈夫」とか、いかなる理由をもっても正当化し得ないことが身に染みてわかる。

 それなのにコンドームひとつ着用するだけのことを怠ってしまえるのは、男性たちが無知のままでいられる社会構造があり、それに男性たちがあぐらをかいてきた現実があるからだ。射精をめぐる意識の変革と知識の伝授を目的に書かれた本書は、男性の性欲を何かと甘やかす社会の構造に揺さぶりをかけていく。それを我々は、男性当事者としてどう受け止めていくべきか。

 例えば私も20代の頃、恋人と性行為をする際にコンドームの着用を怠ってしまったことが結構あった。それによって生じる恋人の不安や諸々のリスクなどを理解していたかと言えば全然そうではなく、浅はかで軽率で、「中に出さなければ大丈夫だろう」くらいの極めて甘い認識の上だったと言わざるを得ない。本当に無責任も甚だしい行為だったと、改めて思う。


射精の根底に根づく弱々しくてほの暗い感情
 ではなぜ、そんなことをしてしまったのか。もちろん無知や無理解という側面も大きかったはずだが、それと同時に「許されたい」とか「受け入れて欲しい」といった感情も深く関与していたように思う。私は思春期の頃から勃起した男性器やそこから出てくる精液にうっすらとした気持ち悪さを感じており、性的欲求を抱く存在としての自分をどこか肯定できずにいた。当時ハッキリとそう自覚していたわけではなかったが、コンドームなしで挿入行為をしてしまった背景には、そんな自分を受け入れてもらえたような安堵感や、罪悪感や自己嫌悪から一時的に解放されるという幻想などが間違いなく関係していた。

 この原稿を書くにあたり、数名の男性にも取材をさせてもらった。「恋人からコンドームの着用を迫られたとき、なぜか拒絶されたような気持ちになって落ち込んだ」という経験を話してくれた人もいれば、「ナマでさせてくれる=俺の子どもを妊娠する覚悟があるという認識で、そのことに興奮していた」と語ってくれた人もいた。性風俗で自慰行為を見てもらうことが趣味の男性は、射精の瞬間になぜか「ごめんなさい!」と叫んでしまうと語っていたし、いわゆる「手コキ」と呼ばれる行為が大好きだという男性は、射精後に「いっぱい出たね」「すっごい飛んだね」と言ってもらうことに無上の喜びを感じると語っていた。

 射精やゴムなしセックスはしばしば「支配」とか「征服」みたいな欲望とセットで語られるが、そういう雄々しいイメージの言葉だけでは説明し切れない、もっと弱々しくてほの暗い感情や感覚が根底に息づいているのではないかと、思えてならない。

 それらは男性自身があまり認めたがらない類のもので、なかなか可視化されづらい。無責任な射精に伴う影響やリスクを理解することはもちろん、自分の中に存在する感情や欲望を理解することもまた、同じくらい大事なことではないか。これに関しては男性たちの声を集めながら引き続き考えてみたいが、いずれにせよ、男性にとって性欲とはどういうものなのか、そこに何を求め、どんな気持ちで射精しているのか、コンドームをつけたがらないマインドが存在するとしたら、それは一体何ゆえなのか──。「射精責任」を担うためにはそういった諸々について言語化していく努力が不可欠だと思うし、何より男性自身にとって、自分の欲望を自分で取り扱えるようにしていくという意味で、それはセルフケアにもつながるものではないかと思うのだ。