リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

榎美沙子と中ピ連、そして秋山洋子と日本のリブ

秋山洋子による翻訳や論評

  • 女性解放運動準備会発行『女性解放運動資料Ⅰ アメリカ編』謄写版印刷の全48ページの小冊子。知る限りでは日本で最初のリブ資料。1970年夏ごろ。収録された「パンと薔薇」の訳者は中村敦夫、発行した女性解放運動準備会は川田雅子ら劇団俳優座の元団員などのグループ。「偉大なる苦力(クーリー)――女性」の訳者は秋山洋子。『リブ私史ノート』より。
  • シュラミス・ファイアストーン、アン・コデット『女から女たちへ アメリカ女性解放運動レポート』訳 ウルフの会・翻訳グループ(秋山洋子・榎美沙他)合同出版 1971年
  • ボストン「女の健康の本」集団『女のからだ 性と愛の真実』訳者 秋山洋子、桑原和代、山田美津子 合同出版 1974年
  • 「榎美沙子と中ピ連」『女性学年報』12号 日本女性学研究会 1991年
  • 資料構成「リブセンターへの手紙」加納実紀代「文学史を読み替える」研究会・編『リブという革命』インパクト出版会 2003年
  • 「東大闘争からリブ、そして女性学、フェミニズム」座談会 秋山洋子、池田祥子、井上輝子 司会:太田恭子・加納実紀代 ●中ピ連のこと 編集女たちの現在(いま)を問う会『全共闘からリブへ――銃後史ノート戦後篇(第8回配本 最終号)』 インパクト出版会 1996年 首藤久美子「優生保護法改悪阻止運動と「中ピ連」」


榎美沙子さんと秋山洋子さんに関して、故井上輝子さんが『日本のフェミニズム』に書いている。

中ピ連について
 他国と違って、日本では、生殖に関する自己決定権、ピルの解禁が遅れた。
 中ピ連中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)はリブではないと断定されて、評価されてこなかった。
 私は中ピ連の決起集会に参加もしたし、しばらく一緒に活動。ピルの副作用がどうであれ、女性の権利としての選択肢は必要との立場であった。代表の榎美沙子さんは、ピルや女性の身体について専門知識があった。確か3回連続で女性のからだについて講習会(代々木のセンターにかなり人が来た)を開いた。私も3日間参加。豪華講師陣で充実。これだけの講師を集められる榎さんはすごい。
 こうした女性の身体の講演は内容的にも充実していたが話題にならなかった。私は榎さんから高齢初産の注意点を聞いたり、タンポンの使い方を教わったりした。
 中ピ連の活動はもっと評価されてよいが、当時、中ピ連はリブ扱いされず、私の中ピ連について書いた文章がなぜ?と批判され、私は以後発言せず。
 なぜ中ピ連は嫌われたのか?
 私が榎さんと会ったのは、なんと懇話会の菅谷さんの紹介。「リブ関係でしっかりした人がいるから、井上さん、会っておいたら?」と言われてその日のうちに彼女のマンションへ。
 当時ではおしゃれなセキュリティつきマンション。電気つきポット。私生活については、今お金がないので、菓子関係の翻訳などしていますとのこと。このおしゃれさとプライベートなライフスタイルは、当時のリブからは嫌われただろう。
 この夜、ウルフの会の集まりがここであったので、そのまま私も残る。そこで、松井さんたちとも出会い、大学院生で、アメリカのリブの文献紹介をしているという秋山洋子さんが安保で一緒だった〇〇さんと判明。お互い苗字が変わっていたので納得。この時点で、私はウルフの会には入り込むべきではないと判断。すでにここで居場所を得ている秋山さんの場を侵すべきではない、と考えた。
 たしかに榎さんは感じが良くなかった。あるとき、今度一緒にテレビに出てほしいと言われてつき合った。私の役割は何かなと考えながら服など選んで参加。でも彼女一人で話っぱなっしで、私の役割はまるでなし。
 その後、ピルをめぐって、ウルフの会は分裂。だが実際には、榎と秋山の対立だった。他のメンバーはそれほど熱心にかかわっていない。
 秋山さんの『リブ私史ノート』で、榎批判がリブ内では定着した。製薬会社からの試供品の提供など、ふつうにありそうなこと。それほど榎さんを疑っても? しかし榎攻撃が強くなり、おつき合いもなくなった。
 1974年、田中寿美子さんに誘われてアメリカ旅行。そのとき、榎さんから電話あり。エヴリン・リードさん(全米アボーション協会代表)宛に、ピル問題のパンフを届けてほしいとのこと。当日、飛行場に若い人が届けにきた。
……
 帰国後、田中さんはリードさんのことを、懇話会会報等で紹介。ちょうどリードさんの本(『性の神話――女性解放の諸問題』)の翻訳も出る。私の疑問は、榎さんがリードさんになぜアプローチしたのか、彼女が全米中絶教会の代表だったからだけなのか第4インターとの関係か? 邦訳者は大原紀美子さんと三宅義子さん(なぜ邦訳したのか? 三宅さんが生きているうちに聞きたかった)。
 榎さん宅に行ったとき、ピンクヘル以外にもヘルメットあり、世界的団体との関係も多岐だったのかもしれない。
(2021.7.22 病院のベッドで)

「女の論理」と社会変革
 1972年5月のリブ大会を最後に、リブ運動の中核は、性格を異にする2つの団体に分裂することになる。すなわち「ぐるうぷ闘うおんな」を中心に設立された、リブ新宿センターと、優生保護法改正反対運動の中で誕生した「中絶禁止法に反対しピル解禁をかちとる女性解放連合」(略称中ピ連)がそれである。……
 優生保護法改正反対運動の方向性をめぐって、リブ新宿センターと中ピ連とは決定的な対立をむかえた。すなわち中ピ連が、「生む生まぬは女の権利」のスローガンの下、「女が自分の生き方を選択してゆくことを拒むもの、女に生むことを強制するもの」としての優生保護法および堕胎罪の解体を主張し、「確実な受胎調節を女の手に握ることが、中絶、出産の自由と共に、女がみずからの性の他からの支配から解き放たれるのに不可欠のテーマである」として、ピル解禁を要求したのに対して、リブセンターに結集する諸グループは、「女は中絶をしたくてしているのではなく、中絶をさせられているのだ」という認識に立ち、「産みたい……でも産めない!」「人間の住める社会で生きたい、産みたい」「子供が生まれても追い出されない部屋を」といったスローガンをかかげた。
 「”生む性”であるがゆえに、生むことに関する負担を一切その肩に負わされ、そのことこそが生活物資の生産に関わるにあたってのハンディとなり、はては生産労働からの締め出しをくう」(『ネオリブ』39号)という意味で、「生む性」を拒否する権利を確保することが、女性解放のための前提条件とする中ピ連の主張は、確かに一面ではリブセンター系のグループが批判するように、生むことに代わる何かをもちうる「エリート女」の主張としての側面を有する。だが他面、リブセンター系の諸グループのように、「生む権利」のみを強調することは、女性存在を「産む性」としてのみとらえる伝統的な女性観の中に女性を閉じ込め、ボーヴォワールのいう女の「性への服従」ないし自然への従属をうながすことも否定できないだろう。
 この問題は、単に優生保護法改正反対運動のスローガンをめぐる相違という以上に、女性解放の方向を定める意味でかなり主要な論点であり、十分な議論を要するテーマといえる。
 優生保護法改正案がいちおう国会で不成立になった後、リブセンター系諸グループは統一的運動目標を失い、再び各グループ単位の個別的活動へと沈潜していくことになるが、これに対して、中ピ連はますます活動性を発揮していくことになる。すなわち、一方では、あくまでも中絶とピルの問題を主要関心とし、医学講座やピルの自主販売を追求しつつ、他方では美人コンテスト会場に押しかけ、反対のビラをまくなど活動の幅を広げ、1974年には「女を泣き寝いりさせない会」を内部に結成し、離婚問題、結婚詐欺、少女暴行などで女性に対して不当なふるまいをしたとみなされる男性に直接抗議に出かけたり、さらに昭和50年には女だけの労働組合結成に力を貸し、労組婦人部ではない「女総評」の結成をめざすなど、多角的な活動に従事している。センセーショナルな闘争手段といい、リーダー榎美沙子のテレビや週刊誌における活躍といい、1975年現在のマスコミ報道をみていると、あたかも日本のウーマン・リブは、中ピ連に収斂したかの感さえも抱かれるほどである。
 だが果たして、中ピ連だけがリブ運動の嫡流といえるのであろうか。確かに、医学講座などを通じて女性の肉体の自己管理をすすめた…、結婚や離婚にとなって具体的に女性が悲劇的な位置におかれた実例を告発した点など、ウーマン・リブの中心課題としての「性の解放」運動を、実質的、具体的に推進した点で、中ピ連の活動は評価に値する。
 ウーマン・リブ運動がともすれば、刃を自己の内面に向けるあまり、社会の現実を変えていく力になりえない面をもっていたのに対して、中ピ連は、対社会的影響力を計算に入れた有効な運動を展開してきた。リブセンター系のミニコミや、そこに結集した女たちの発言が論理的であるよりは修辞的であり、ある者にとっては非常な感動をもたらすとはいうものの、他の多くの者たち(とくに男性やリブに無関心の女性たち)にとっては、伝達不能ともいうべき性格をもっているのに対し、中ピ連機関誌『ネオリブ』の文章は、リブ派以外の女性および男性の読解力に十分耐えうるものであるし、榎美沙子のマスコミにおける諸々の発言も論理明快で説得的である。こうした表現方法の総意は、コピーライター出身の田中美津と、理科系大学院出身の榎美沙子という両リーダーの経歴やパーソナリティに起因するところが大きいといえるが、それ以上にリブセンター系グループと中ピ連との運動の性格の総意を物語っているように思われる。
 中ピ連が他の婦人運動団体や政治組織と同様、いわば具体的目標達成のための団体であり、それ故、他者に対する説得性や、運動の効果を第一義に考えるのに対し、「ぐるうぷ闘うおんな」をはじめとするリブグループは、他者に対する働きかけ以上に、自己変革を意図するグループであり、それ故、自己にとってもっとも確かなてごたえのあることばであり、運動であることが第一義であって、他者や社会への顧慮は二の次となるのである。
 ……中ピ連がいわば、現に存在する女の実態に即して、その社会的存在形態の変化に着手したとすれば、リブセンター系の諸グループは、いわば「女の論理」を自己および社会に投げかけた点で、価値ある存在であろう。女の実態の実質的変革と「女の論理」の噴出とが、ともにウーマン・リブの重要な2つの遺産として、今後に受け継がれていくことを期待したい。

Evelyn ReedについてWikipediaから仮訳しました。

 エヴリン・リード(1905年10月31日-1979年3月22日)は、アメリカのマルクス主義者、トロツキスト、女性の権利活動家。

 2人の姉妹とともにニュージャージー州ヘイルドンで生まれ育ったリードは、まだ10代のうちにニューヨークに出て、1934年にロックフェラー・センターで行われた、有名なメキシコ人芸術家ディエゴ・リベラが描いた革命壁画の破壊に反対するデモに参加して、初めてあからさまに政治的な行動を起こした。作家志望のオズボーン・アンドレアスとの短い結婚生活の後、ニューヨークに戻るまでの3年間、アイオワ州クリントンで夫と暮らした34歳のリードは、1939年12月から1940年10月まで何度かメキシコを訪れ、亡命中のロシア革命家レオン・トロツキーとその妻ナタリア・セドヴァと過ごした。1940年8月にトロツキーが暗殺された後も、リードはナタリアのもとに滞在し、彼女を支援した[1]。

 1940年1月、コヨアカンのビエナ通りにあるトロツキーの家で、リードは社会主義労働者党の指導者であったアメリカのトロツキスト指導者ジェームズ・P・キャノンとも出会った。その後、リードはトロツキーの勧めで社会主義労働者党に加入した。リードはトロツキーと、彼女の個人的な計画、党における自分の立場、そして彼女を経済的に支援している姉との確執について話し合った。リードは死の直前まで、39年以上にわたって党の主要メンバーであり続けた[2]。

 1960年代から1970年代にかけて、第二波フェミニズムと女性解放運動に積極的に参加したリードは、1971年に女性全国堕胎行動連合の創設メンバーであった[3]。この間、彼女はアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本、アイルランド、イギリス、フランスの各都市で、女性の権利に関する講演や討論を行った。

 フリードリヒ・エンゲルスとアレクサンドラ・コロンタイの女性と家族に関する著作に影響を受けたリードは、マルクス主義フェミニズムと女性抑圧の起源と解放のための闘いに関する多くの著作がある。リードの代表的な著作は以下の通り:『女性解放の問題』、『女性の進化』:母系家族から家父長制家族へ』、『生物学は女性の運命か』、『化粧品、ファッション、女性の搾取』(ジョセフ・ハンセン、メアリー=アリス・ウォーターズとの共著)など。

 1972年のアメリカ合衆国大統領選挙では、社会主義労働者党のアメリカ合衆国大統領候補として指名された[4]。3つの州(インディアナ、ニューヨーク、ウィスコンシン)のみの投票で、リードは合計13,878票を獲得した。1972年の主な社会労働党大統領候補はリンダ・ジェネスで、52,801票を獲得した[5]。

 リードは1979年3月22日、ニューヨークで死去、享年73歳。