『資料 日本ウーマン・リブ史Ⅱ1972~1975』より
溝口明代・佐伯洋子・三木草子編 松香堂出版 1994年
産める社会を! 産みたい社会を!=優生保護法改悪を阻止する全国集会に参加を
〈優生保護法改悪阻止実行委員会〉1973・6
産むも産まぬも女が決める!産めない、産みたくない社会を背景としての中絶とは、子殺しの別称に他ならない。むろん、その罪は社会にこそある。……だからといって、〈こんな社会だから堕して当然〉〈胎児は、まだ意識がないから〉と称して、子殺しさせられるわが身の痛みを、女は合理化できない。合理化してはならない。
生めない社会の悪を悪として追及する中で、女は切り刻まれる胎児と真向おう。女に子を殺させる社会は、むろん女自身も生かせない。次に殺されるのは我が身である、その事実を鮮明に意識下する中で、産める社会、産みたい社会をこそ創っていこうではないか!
――女が経済的にも精神的にも、生きるぎりぎりの選択として、中絶を選んでいるかどうか――それは女自身が己れに党ことであって、法が、その行為を裁くことはもとより、他者が推測し断罪すべき事柄ではない。……女たちよ今こそ叫ぼう! 産める社会を! 産みたい社会を!
(1973・6)
中絶は女の権利である エヴリン・リード(19735.23 大阪討論会)
「産む産まぬは女の権利」というのは性差別を行っている男社会の中での主張であって、女が差別され生きがたい社会の中で女はその権利をもつというのです。……一般的に、いかなる理由にせよ望むときに女は中絶できる権利があるといっているのです。言うまでもありませんが、中絶は最後の手段であって、何よりもまず避妊でしょう。
(『女から女たちへ』No.8 1973・7)
〈マジョのコーナー〉わたしは中絶は女の権利だと思う……
「中絶は女の権利である」ということばにためらいを感じる女が少なくない。「権利」の二文字にひっかかるのだ。でもわたしは「中絶は女の権利である」と主張したい。……中絶を希望する女に国家のいかなる干渉も不要である。
「産める社会を! 産みたい社会を!」※のスローガンはあまりに抽象的で、無害で、わたしには「中絶は女の権利である!」の方がずっと具体的で現実的だと思われる。政府が中絶をさらに制限しようとしているとき、女は中絶の権利を主張するべきではないだろうか。「産める社会」であっても「産めない社会」であっても、のぞまない妊娠は起るから、女にとって中絶の自由派かならず必要なのであり、とりわけ産めない社会だからこそ、まず中絶の権利は女が確保しておくものだとわたしは思う。……妊娠は産むか・産まないかの二者択一であり、「産まない・産めない」場合には中絶しかないのである。中絶できないために女を自殺に追いこむことがあってはならない。性は生殖だけが目的ではない。胎む性の女には産む権利があると同様に、中絶する権利もあるのである。
……エヴリン・リードがいうように、「中絶は最後の手段」であり、女は誰もあの手術台にのぼりたいとは思っていない。…女の子宮の中でしか胎児が成長しないということは、女が希望するときにのみ胎児はこの世に生まれる可能性をえるのであり、その女を無視して「胎児は生きる権利がある」とは誰も言う資格はない。
……
女が産みたいときに生めるような社会を! と同時に、女が産みたくないときには中絶できる自由を! 女の権利として主張したい。
(『女から女たちへ』No.9 1973・7)※「産める社会を! 産みたい社会を!」
田中美津の「敢えて提起する=中絶は既得の権利か」(1972・10)以後、リブ新宿センターを中心に、「中絶は女の権利」のスローガンがこのスローガンに変わった。(p.326)