リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

岩本美砂子「人工妊娠中絶政策における決定・非決定・メタ決定」

年報行政研究 1993 年 28 号 p. 119-143

人工妊娠中絶政策における決定・非決定・メタ決定 ――一九八〇年代日本の二通りのケースを中心に――
三重大学人文学部助教授岩本美砂子

(中絶時の生育可能期間を)二週間短縮し「満二二週未満」とする……次官通達の改訂は、翌九〇年の衆(43)
議院選挙後の三月二〇日になされた。
 この新通達発令と実施(妊娠二三〜四週の中絶の規制開始)の間の九ヵ月の間に、妊娠・出産に関わる二つのニュースがあった。九〇年六月に公表された、八九年人口統計(速報値)で合計特殊出生率が一・五七と史上最低の六六年(一・五八―ヒノエウマが原因といわれる)を下回ったこと(いわゆる「一・五七ショック」)と、九〇年五月に決まった消費税改訂で、国税庁・厚生省の水面下での交渉の末、出産や妊娠検査という自由診療は非課税とするが、中絶や避妊指導は課税継続とする(行政指導の通達以下の「取り扱い」レベル)という決定がなされたことである。
ーー中略ーー
この出生率低下のニュースに関連して、当時の海部内閣の橋本龍太郎蔵相が「女性が高学歴化したため」と発言、外国人女性記者の質問を受けあわてて取り消すという(44)一幕もあった。女性たちの多くはこの件に関して、育児環境の不備への不満は見せたものの、「産む産まないは個々の択であって国家が介入すべきでない」、という態度を見せた(45)。しかしこうした主張は、一方で八九年四月から九〇年一〇月まで、出産にも消費税がかかったことへの不満(納税者反乱――佐々木毅)には結びつき、これを入学金・埋葬料への課税とともに撤廃させたが、他の福祉費用が非課税であるにもかかわらず妊娠中絶や避妊具・避妊指導に消費税が課さ(46)
れ続けることへの批判には、つながらなかった。
 こうして既得権侵害への反発は吹き出しても、行政の閉ざされた場での決定に抗しては、八二〜三年のような全国レベルでの女性のネットワーク運動はおこっていない。これは、九二年三月のミニピル認可についての中央薬事審議会の「非決定の決定」に対しても同様である。ミニピルは従来の月経困難治療薬として認可されたピル(これが脱法的に避妊に用いられることがある)に比べホルモン量が少ない(副作用も少ない)。先進国では例外的に避妊用に経ロピルを解禁していない日本でも、これについてはようやく解禁の方向が打ち出され、八六年から研究班が作られ治験も終了していたもの(47)である。しかし、おりから後天性免疫不全症候群(エイズ)
が日本でも(輸入血液製剤以外でも)広がり始めていた。日本では他の先進国と比べ発見された感染者・患者がなお少なかったが、この事実が七〇年代以来の同性愛者の自己表現行動(カムアウト)が日本で著しく阻害されていることの結果としてではなく、避妊用ピルが未解禁で異性間性交渉でコンドームが頻用されることと結びつけて解釈された。そしてこの現状は九二年初頭には「好ましい」こととされ、「エイズが感染しうる行為と、妊娠しうる行為は全く同一ではない」といった教育・広報がないまま、副作用などの配合剤部会の認可基準(未公開)とはズレると思われる判断(これも公式に(48)は非公開)で、ピル凍結が決定されたのである。
 「日本家族計画連盟」や「阻止連」などの団体は、「副作用の情報も得たうえでピルを用いるかどうかは本人が判断すればよい。厚生省がミニピルまで認可しないのは、女性の手で(49)実行できる避妊手段を奪うことになる」と抗議した。しかし女性運動家のなかには、「ピルは副作用が大きいのですべて(50)政府が使用を禁じるべきだ」との主張もあり、他方ピルが「特に十代の性風俗の頽廃を招く」、「これ以上出産が減ったら、若年労働力が不足し国力にかかわる」という保守的な声も陰に陽に働いた。ピルの是非は、中絶とは異なり、政府による禁止の是非というレベルでは広く論じられなかった。こうして、一九八〇年代末以降の避妊・中絶に関する三つの決定は、国会というフォーマルな決定機関を迂回しておこなわれた。

ここでいう「三つの決定」とは、①中絶可能期間の短縮、②中絶や避妊指導は消費税を課税、③ピル凍結のことである。