リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

シーナ・アイエンガー著(櫻井裕子訳)『選択の科学』

コロンビア大学ビジネススクール特別講義(文芸春秋社)2010年

シーク教徒であるインド人の親の元にカナダで生まれ、アメリカで育った著者が自分で「選択」すること

著者はリチャード・ニスベットと増田貴彦による実験を示し、日米の認識の違いを説明している。5秒間水中の情景の写真を見せてから、どのような情景だったか描写してもらうと、アメリカ人は視界に入る生き物の中で一番目立っていた3匹の魚に注目していたが、日本人は情景全体(海草や石、泡、背景の小さな生き物など)に注目して目に見えたものを全体的に説明したという。これを筆者は個人主義文化と集団主義文化の認識の違いだと説明している。他にも、オリンピックのメダリストのコメントで、アメリカ人は成功要因を個人の能力や努力の観点から説明することが多い一方、日本人選手は自分を支えてくれた人たちのおかげで成功したとコメントする傾向がある。逆に不祥事についても、アメリカは個人の行動に責任を求めることが多いが、日本の場合は制度的要因に言及することが多いという。

 あなたの目に映るものが、あなたの世界の受け止め方を決め、ひいてはあなたの世界観や人生観にまで影響を与える。ほかの研究でも、一般にアジア人は西洋人に比べて、人が他人に与える影響が限定的であり、人生は運命に大きく左右されると考えていることが報告されており、わたしの研究結果と符合する。このような、選択の自由に関する認識の違いは、どのような影響をおよぼすのだろうか?

この実験の写真が本にはあり、私は「日本人型」であることを思い知らされた。だけど、キャロル・ギリガンの中絶を受けた女性の調査では、必ずしも自己中心的ではない「選択」をしていたではないか。東西の文化だけではなく、ジェンダーでも違いが出てくるのではないかとは思うけれども。ただ、次の指摘は確かに。

特定の状況を支配する主体がだれなのか、あるいは何なのかという認識を形成する上で、文化が重要な要素になっているということだ。こうした物事のとらえ方が、この実験のような抽象的な水槽の情景でなく、現実世界の状況に適用されるとき、客観的には同じか、似たような状況であっても、見る人がどんな文化を持っているかによって、まったく異なる解釈がなされる場合がある。そしてこのことが、ひいては人々の選択の方法にも影響を与えるのだ。

そして著者はエーリック・フロムが『自由からの闘争』で示した二つの自由の定義を持ち出す。

自由は互いに補完する二つの部分に分けることができる。一般に「自由」と言えば、「人間をそれまで抑えつけてきた政治的、経済的、精神的束縛からの自由」を指すことが多い。つまいr目標の追及を力ずくで妨害する外部の力が存在しない状態だ。この「からの自由」に対立するものとして、フロムは可能性としての自由という、もう一つの意味の自由を挙げる。つまり、何らかの成果を実現し、自分の潜在能力を従前に発揮「する自由」だ。「からの自由」と「する自由」は、必ずも両立しないが、選択のメリットを十分に活かすには、この二つの意味で自由でなければならない。

本当の意味で選択を行うには、選択する能力があり、かつ外部の力に選択を阻止されずにいられるという、両方の条件が満たされなければならない。……両方の自由を同時に最大化することはできないが、幸い、これはゼロサム・ゲームではない。ある程度までなら、両方の利点を活かすことはできるのだ。たとえば国民から集めた税金で社会保障を賄えば、「からの自由」をそれほど制約せずに、多くの人の「する自由」を大いに高めることができる……ほとんどの人はこの両極の間で、何とかバランスを取りたいと考えている。

「選択肢は少ないが、だれもが同じようにそれを持てる世界と、選択肢は多いが、持てる人と持たざる人がいる世界」のどちらを選ぶかと尋ねてみると、東欧圏の多くの人々は前者を選んだ。


続きは気が向いた時に……。