リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

フェミニスト倫理学者Virginia HeldのFeminist Morality(1993)より抜粋。

 工場飼育factory farmingの問題に話を絞ろう。動物に不要な痛みを及ぼすことは悪であると常々信じている人が,ある子牛の飼育法について深刻で全く不要な痛みを子牛たちに負わせるものだと判断すれば,その飼育法を非難するといった判断が続くであろう。だが,食用に育てられた動物が痛みを覚えていることを知りつつも,以前はほとんど気にしてこなかったということも十分ありうる。ところが,ある工場飼育の現場を訪れて,どれほど狭いところに動物が押し込められているか,動物がその拘束を逃れようといかにもがいているかをその目で確かめたとする。その動物が不満を「意識」できるような形で,自らの状況を把握しているかどうかについては,まだ疑いの余地があるかもしれない。それでも,他の条件は何も変わらないのに,その動物を拘束状態におくべきではないと判断するのであれば,その判断は,動物はいかに扱うべきかとか,飼育による利益や消費者の満足と動物の苦悩とを比較衡量すべきだといった一般的な信念とは独立して下されたと考えることができる。
 私見では,その動物の取り扱われかたを非難するといったその特定の判断は,人々が従来から抱いている信念に根ざすのではなく,人々がどう感じたかということや,いま問題になっている特定の文脈のなかでその人がどのような立場を選択するかということに基づいて行なわれもよい。それまでの道徳的信念とは独立して,判断が行なわれることもある。そこで行なわれる判断が取り返しのつかないものだとか,「基礎的」なものだと言うつもりはない――そうした判断は,他のすべての判断やある人が自らの指標にすると決めた原則に照らして,修正することも可能だからである。だがここで言いたいのは,そこで行なわれる判断は互いに一貫性を求めるべき諸判断のうちの一つだということである。その判断が感情に基づくものだとか,情緒に色づけされた選択であるといったことは,他の道徳理論が想定しているように,その判断を無効にするものではないと,私は見ている。それとは正反対で,そうした具体的な判断が感情に基づいて行なわれることは往々にして正当化されうる。
 いったんある人が特定の判断にたどり着いたら,その判断を他の関連する諸判断とのあいだで一貫性が保たれるものにする必要に迫られる。その過程で,場合によっては人々の食糧に対するニーズがある程度の動物の苦悩を凌ぐ場合もあると判断するかもしれない。だがそうした問題を含んでいなかった以前の判断の網の目(a web of judgments)は,人が動物に与えられる痛みは減らすべきであり,各種の工場飼育法はあまりにも多くの苦痛を与えるので道徳的に許容されてはならないという一般的な判断を含んだ判断の網の目に置き換えられる。
 私の理解では,道徳的体験には道徳理論とは別に人々が下すような判断も含まれる。そこには,自分自身が信奉している一般的な道徳判断とは独立して到達するような自らの振る舞いに関する選択も含まれる。時に我々は,いかに振る舞うべきかを教えてくれる道徳理論や一般的な判断をすでに身につけており,それに従って振る舞い,自分が正しく振る舞ったとみなしていることがある。一方,自らの信じるものに従った行動を取れない時には,自らがたとえば意志が弱かったために間違いを犯したと判断することで,理論や判断の中にある信念を維持していくこともある。別の時には,いかなる道徳理論や抽象的な一般理論とも無関係に,ある特定の行為が正しいと感じられたためにその行為を選択する場合もある。さらに,その特定の行為は道徳的に正当化されたのだと思い続けていくようなこともある。その場合,自分が正しいと判断した行為は,かつては完全だとみなしていた理論から導かれるものとは矛盾するために,自らの道徳的信念を修正する必要に迫られるかもしれない。だが,理論がそう言うのだからその行為は過ちだと想定するのではなく,むしろ行為という道徳的体験を行なう際に到達した判断のほうを保持し,理論のほうを棄却することを正しいとみることも可能である。しかも,それが自分の行動指標となるべき一貫とした道徳的信念体系を構築しようとする真摯な探求プロセスの一部として行なわれるのであれば,それは合理化と見る必要はなく,むしろ自らの道徳的理解を持続的に改善することを狙った適切な内的な対話の一部だとみるべきなのである。
 もちろん,すべての体験が私が論じているような理論の「試金石」の役目を果たせるわけではない。また,そうした役目を果たせるような体験を積極的に求める必要もない。時に我々は,自らの従来の道徳的信念を破壊してしまうような体験に行き当たるものである。そこで求められるのは,体験が発生する以前,そのさなか,以後において,道徳の探求者がその体験を試金石として解釈することであり,そこで問題となる視座のうちいずれが最も正当であるかを,答えはどちらになるにせよ解釈することなのである。
【試訳 塚原久美】


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