リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

More Work for Mother

エキサイティングな本を見つけた。

邦訳『お母さんは忙しくなるばかり:家事労働とテクノロジーの社会史』
著者 ルース・シュウォーツ・コーワ
訳者 高橋雄造
法政大学出版局(2010年10月)

お母さんは忙しくなるばかり―家事労働とテクノロジーの社会史

訳者あとがきによれば、著者は科学技術の社会史を専門とするペンシルベニア大学教授で、執筆当時は娘三人を持つ主婦でワーキングマザーだったそうだ。

家電製品の普及で主婦労働は楽になったという“常識”を全くくつがえす内容に、目から鱗が落ちる思いがした。

コーワンによれば、家事テクノロジーの進化は、女(ばかり)を忙しくした。元々「家庭」では、男と女(そして子ども)がそれぞれに「家事」を分担することで生活が営まれてきた。だが19世紀以来のテクノロジーの進歩は、男や子どもの家事労働(たとえば、革細工、家畜屠殺、燃料集めなど)を省略化し、女性(主婦)の家事労働をかえって増やしたというのである。たとえば、「粉挽き」という家事労働(主に男性が担っていた)は製粉業者が出てきたことで外部化されたが、手軽に薄力粉を買えるようになったことで、ふわふわの白パンを手作りする(という贅沢を現実化するための)女性の家事労働はかえって増えた。かつて、洗濯がほとんど不能だったリネンや毛織物ではなく綿布の服を(取り換えひっかえ・・・しかも、流行に応じて)着るようになって、洗濯ものの量が増大したが、洗濯機の普及のために、洗濯は(かつての洗濯女を雇うのではなく)もっぱら「主婦」の仕事となった。家電製品を買って主婦が「自分の手で」なんでもやるようになったことで、女中や家事手伝い人を雇うことがなくなり、主婦の家事労働時間はかえって増えたのだと・・・。

詳細な資料・史料に基づく議論で、読み応えがある。「母性」や「専業主婦」の作られかたについても従来とはちょっと違う角度で切り込み、女性たちに「罪悪感」を抱かさせるようなマスコミの操作があったという話も興味深い。コーワンの視点で1960年代アメリカにおける専業主婦の憂鬱を描いたベティ・フリーダンのFeminine Mystiqueを読み返すと面白いんじゃないかなどとも思った。

最後の結論部分は次のとおり。

主婦を支配している規則の多くは意識されておらず、それゆえに効果が大きい。これらの無意識の規則をメーカーと宣伝会社は利用しているが、これらの規則は彼らが創造したのではない。こういった規則の歴史を明らかにすることによって、われわれは規則を意識にのぼらせ、その効果を薄めることができる。そうすれば、これらの規則が本当に役立つのか、それとも昔からの言い伝えの産物であるか、宣伝屋の営業努力であるかを見極めることができる。私たちにとって意味のある規則だけを選び出す術を身につければ、私たちは家庭テクノロジーにコントロールされるのでなくこれをコントロールできるようになるであろう。そうなって初めて、家庭テクノロジーのすばらしい可能性――お母さんの労働は減る――が現実のものになるであろう。(p.237-8)

つまり、性役割意識だとか女のプライド(?)に働きかける広告に踊らされることなく、パーフェクトな母・主婦を目指すのはやめようということ。夢中で読んでいて、はたと気づくと、ひどく取り散らかった我が家だが、まあいいかと思うことにした。