リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

北京女性会議から25年、日本はいま 参加者たちの思い

朝日新聞 2020年8月30日 9時30分

北京女性会議から25年、日本はいま 参加者たちの思い:朝日新聞デジタル

伊藤繭莉、高橋末菜、机美鈴、大谷百合絵、照井琢見、野城千穂、根本晃、竹田和博、三島あずさ、中塚久美子

 1995年、北京で開かれた国連の第4回世界女性会議(北京女性会議)は、女性の貧困や教育など12分野の目標を掲げた行動綱領を採択、各国の女性政策の推進を強力に後押ししました。日本からは約5千人が参加。ジェンダー格差の解消と地位向上の願いを、世界から集まった数万の女性と共有しました。あれから四半世紀、参加者たちは北京でどんな糧を得て、どう歩いてきたのでしょうか。

性差別解消へ 自然体で
●福岡・本多玲子さん(61)

 1993年から、セクハラ被害者を支援する「ぐるうぷ・NO!セクシュアル・ハラスメント」で電話相談の活動をしていました。北京会議には、前回のナイロビ会議(85年)に参加した仲間から「世界の人から情報がもらえるよ」と誘われ、セクハラ問題を発信したいと思い、参加しました。

 会議のNGOフォーラムでは、日本のセクハラ被害について発表しました。50人ほど集まり、オランダの女性警察官からは「警察でもセクハラがある」、他の聴衆からも「自分の国も同じだ」と共感されました。

 東南アジアの人身売買や、旧日本軍による慰安婦問題など、他国のワークショップにも参加しました。中でも、ルワンダの女性が内戦時の性暴力の実態について語る姿を間近で見て、テレビで見る遠い国の話が、同じ女性に起こる地続きの出来事だと実感しました。

 世界の女性がジェンダーという共通のテーマで生き生きと語る姿が輝いて見えました。これまで自分が眉間(みけん)にしわを寄せ、気負いながら活動していたと気づき、「もっと自然に楽しくやっていいんだ」と思えるようになりました。日本では、マイナーな活動をする自分が変わり者のように見られていると思ってきましたが、会議を通じて世界中に仲間がいると感じられ、私はこの道を進んでいこう、と自信が持てるようになりました。

 その翌年に福岡県男女共同参画センターの相談員になり、現在は民間団体で相談を受けています。4年前からは国際協力機構(JICA)の事業で、アフガニスタンの新人女性警察官に女性への暴力に関する研修の講師もしています。会議が世界に目を向けるきっかけになりました。(聞き手・伊藤繭莉)


「結果出して」の声励みに
●大阪・荒金雅子さん(59)

 女性の再就職支援団体のメンバーとして北京に行きました。女性運動の経験やフェミニズムの知識もなく、ただ好奇心と世界の女性と語りたいとの思いだけで参加しましたが、数万人が埋め尽くした会場で、確かなシスターフッドとエンパワメントを感じました。

 現地では、結婚や出産でキャリアが断たれる日本女性のM字形就労を問題提起するワークショップを開きました。建物は未完成で骨組みだけ。大雨の中でマイクもなく、プレゼンは断念して数人ずつのグループで話し合うことに。居合わせたメキシコ人女性に「どんな変化を起こしたの」と問われ、「頑張っている」と答えると、「それは自己満足に過ぎないのでは? 結果を出さなきゃ意味がない」と言われ、言葉に詰まってしまいました。彼女は少女売春をなくしたいと、法律を変えるために大臣にまでなった人でした。確かに大きな結果は出せていないけれど、政策を提言したりシンポジウムを開いたり、それなりにやっている自負もありました。でも、「何をやるかではなく、どう結果を出すかが重要」という言葉に、揺さぶられました。

 その後、各地の男女共同参画政策のコンサルティングや女性のリーダー養成にも関わりましたが、企業や社会のシステム自体を変えたいとの思いが募り、2006年にいまの会社を起業。主に企業向けに研修やセミナーを行い、アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)を自覚する重要性や、多様性を包摂する職場への変革を説いています。

 今年までに指導的地位における女性の割合を3割にするとした国の目標は達成できず、ジェンダーギャップ指数は世界最低レベル。日本は世界から大きく取り残されています。国の動きを待っていられない、との思いから仲間たちと「女性役員を3割に」、との呼びかけを始めています。「管理職3割」よりもインパクトがあると考えたからです。昨年のG20サミットでジェンダー平等に向けた提言をした「W20」の運営委員を務めたのをきっかけに、25年の大阪・関西万博ではウィメンズエキスポを開く構想も温めています。

 恨みなどのルサンチマンを原動力とする女性運動は、限界があると思います。怒りや「おかしいよね」との思いが出発点にあるのは当然だし、そうした思いを打ち出す手法が有効な場面もある。ただ、対立軸を作り、男性を敵と見なすやり方は、真のジェンダー平等を実現するものではありません。確かに男性は保守的で、問題意識が薄く、女性を脅威に感じ攻撃してくる人が多いことも事実。それでも男性をうまく巻き込み、共感を得つつ、一緒にやっていく必要があると思います。

 どれだけ降っても溶けてしまう雪が、路面が冷えてくると一気に積もり始める。遅々とした歩みにあきらめてしまうのではなく、結果を出すために行動し続けることが大切。自分の力を信じて結果を出そうとの信念は、北京で得た私の財産です。(聞き手・机美鈴)


「人としての平等を」「選挙の立候補応援」
●茨城・西連寺節子さん(69)

 昔から、男も女もみんな仲間でしょって思っていました。小学校では、男子だけのソフトボールクラブに、私ひとりで参加していました。

 25歳で結婚し専業主婦に。3人の子育てに追われていた40代前半から、水戸市主催の女性のための勉強会に通い始め、その縁で北京会議に行こうと誘われました。

 好奇心だけで参加してみたら衝撃! ネパールの女性弁護士が「女性の識字率は低い。私は恵まれている」と教えてくれました。ハッとしました。文字が読めないことは、自分の立場に気づき、訴える機会を奪われることだと。

 男女の差を感じることもありました。息子が通う小学校のPTA副会長だった時、苦労して実現させた小学校の創立記念コンサートで、当日壇上に立ちあいさつしたのは、もう一人の男性副会長でした。息子に「みんなが、お前の母ちゃん出てくるぞって言ってたのに。今は男女平等なんでしょ?」と聞かれて、返す言葉がありませんでした。

 でも女性同士も一枚岩ではありません。働く女性から、子育てに専念する生き方を否定されたこともあり、正しい生き方は一つじゃないのになぁと思ってきました。

 私が目指すのは、男女の枠を超えた人としての平等です。困っている人なら、誰でも助けになりたい。

 外国人向けの防災訓練や性の多様性を考える勉強会を企画したり、女性の視点も反映した防災冊子を作ったりしてきました。違いを認め、それぞれが持ち味を発揮できる社会になってほしいですね。(聞き手・大谷百合絵)

●徳島・諏訪公子さん(77)

 「男の子だったら良かった」。小さい頃から父にそう言われ育ちました。母は黙って父に従う。子ども心に不思議でした。そして30年以上も前になりますが、徳島県が主催したジェンダー問題について学ぶ講座に参加したのがきっかけで、女性をとりまく社会の「不都合な真実」に気づきました。

 北京会議に参加したのは、男女平等に向けて大きく変わっていく世界を生で感じたいと思ったからです。ミーハーな気持ちでした。

 現地では、アフリカの女性差別をテーマにしたワークショップなどに参加しました。世界各地から参加した女性たちで、NGOによる会議はすごい熱気。知識を吸収したというよりも、とにかく刺激を受けました。「私もなにかしなくちゃ」。思いを強くしました。

 日本で男女格差がなかなか無くならない一番の要因は、政治にあると思い、1999年に「阿波女を議会に!バックアップスクール」を地元で設立。女性議員を講師に呼んで勉強したり、立候補する女性たちを応援したりしてきました。

 徳島県は女性社長の割合が全国トップ級で、地元の主要な経済団体のトップも女性が占め、女性の社会進出が進んでいるとみられることも多いです。ただ、それは一面に過ぎません。県内に女性議員がゼロの議会は複数あります。ゼロではなくても、女性議員が1人だけの議会も多い。女性議員が増えているという実感はありません。立候補への家族の反対と、金銭問題が大きな壁となっています。私自身も出馬を考えたことがありますが、夫の病気や介護に追われてかないませんでした。

 北京会議から25年たち、女性の社会進出はもちろん進みました。ただ、変化が遅すぎる。候補者を男女同数にすることを求めるフランスのパリテ法のようなものが日本にも必要です。比例名簿を男女交互にする工夫なども、政党がやる気になれば法律を作らなくてもできます。与党や各党の党首が、強い意思を持ってリーダーシップを発揮しなければ変われません。このままでは日本は世界から取り残されてしまいます。(聞き手・高橋末菜)


●愛媛・立川百恵さん(82)

 地域生協の意思決定の場に、女性の参画を――。日本生活協同組合連合会の「女性評議会」の議長として、北京会議のNGOフォーラムでそんな報告をしました。

 当時、コープえひめの理事長として、全国各地の生協幹部が集まる会議に行くと、女性は指折り数えるほど。各地の地域生協は、役員に経営のことがよく分かる男性を置いていました。組合員の大半は女性なのに、「これはなあに?」と。

 だから北京会議では、「生協の」男女共同参画について一生懸命訴えました。でも、一組織の話。世界の女性たちの反応は、「日本の団体が頑張っているのね」ぐらい。正直なところ、広い視野で女性の問題を捉えていなかったと反省しました。

 会場の熱気はすごかった。「慰安婦」問題に取り組む団体のワークショップでは、性産業に関わるプロの女性たちが意見をぶつけていました。のびのびと発言する女性たちは太陽のように輝いていました。

 その後、生協という枠を超えて、あの熱気をものにしなきゃと努力したつもりです。「まつやま男女共同参画会議」の会長として松山市男女共同参画推進条例案をまとめました。北京会議の反省は、その後の起点になりました。

 あれから25年経って、政府が「指導者層に女性を3割」という目標を諦めたのが残念です。コープえひめが役員を女性だけにした時、「ムチャクチャだ」と言われましたが、ちゃんと運営できた。いま足りないのは、社会をそっくり変えようとする「本気」だと思います。(聞き手・照井琢見)


●秋田・信太和子さん(69)

 若い頃から学習塾経営や不動産業で生活し、よく海外旅行をしました。ニューヨークの国連本部を観光したときに北京会議の存在を知りました。好奇心で参加し、つたない英語でしたが、各国の女性特有の問題を幅広く議論しました。

 北京会議以前から、私の中には社会にアクセスしたいというエネルギーがありました。女性が自分の手で稼がなければ社会は変わらない。社会の意思決定の場に参加したいと、2003年に2度目の挑戦で能代市議に初当選しました。北京会議が大きな突破口になり、困難でもやってみようと思ったのです。

 初当選時、女性市議は3人。反対の論陣を張ると、男性市議よりもヤジが多かったり細かな言動を厳しく非難されたり、男より女に反対される方が腹立たしいのだなと感じることがありました。

 ただ、私も自分の固定観念に驚いたことがあります。銀行で融資を受ける際、若い女性行員が担当になって一瞬不安がよぎりました。相手の経験や能力を知らずに「若い女性」というだけで。もちろんきちんと仕事をしてくれて、私は反省しました。一人一人が自分の中の差別を自覚して変わらなければいけません。

 市議は引退しましたが、縁があって今でも私に相談に来てくれる人たちがいます。生活保護を受けようかと迷う主婦の女性に、働くよう背中を押したこともあります。

 私自身これから新たな事業を始める予定です。自分が進むことによって誰かの刺激になればという思いがあります。社会にアクセスする人を一人でも増やすことが、大げさかもしれないけれど、女性の地位向上につながると考えています。(聞き手・野城千穂)


●奈良・川合紀子さん(78)

 奈良県の女性政策課長としてNGOフォーラムに参加しました。奈良県からは17人が参加しましたが、みんな何かをつかんで帰ろうという意欲がありました。

 私のグループはワークショップのほかに、前年のカイロ会議で打ち出された「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康・権利)」について、アンケートをとりました。妊娠中絶が合法かどうかや、乳がん検診の制度があるかなど12項目を37カ国111人に尋ねました。

 質問は英語やスペイン語の文章を紙で用意していましたが、私が話せるのは「プリーズ」と「サンキュー」だけ。身ぶり手ぶりで頑張りました。調査結果は後に日本母性衛生学会で発表しました。母性衛生の問題にリプロダクティブの考えを、国際的視点を絡めて提案したとして評価されました。

 帰国後は県の女性行動計画の策定や男女共同参画推進条例の制定を担当しました。フォーラムでの講演や参加者の発言から、リプロダクティブの権利の確立や女性に対する暴力防止が世界的に課題になっているとの思いが一層深まり、計画や条例にその内容を盛り込みました。

 定年直前に、奈良県初の女性の部長級職に就任しました。行政も民間も女性の管理職はまだ少ないです。クオータ制など、まずは女性をポストに就けてから育ってもらうのも手だと思います。

 フォーラムは当時の日本の女性に大きなエネルギーをもたらしました。このような女性の大規模な非政府会議がまた開かれて、世界的に大きなうねりとなり、日本の社会にも波及すればいいと思います。(聞き手・根本晃)


●富山・小路みつ子さん(87)

 小学校教員だったころ、管理職は男性だけ。職場で「あんたも男だったら良かったのに」と言われて食ってかかったこともありました。校長になっても、定年前に「そろそろ後輩に譲ってもらえると」と退職を促される時代でした。そんな悔しい思いがあって、「何かしたい」と退職後に婦人会活動に関わり始めました。

 北京会議には、世界の女性たちが何を訴えるのか興味があって、富山県婦人会の会員として参加しました。現地では、日本での女性の政治参画の少なさを指摘され、積極的に参加するようにしつこく言われましたね。でも、何から手をつけたらいいか分からない。自分たちに足りないものを感じさせられました。

 ワークショップでは、識字率や貧困、人権など、みんなが自分の地域の課題にどう取り組んでいるかを必死に訴えていました。そのパワーや表現力に圧倒されて、すごく感動しました。でも、感動だけでは世の中は変わらない。行動に移す大切さもひしひしと感じました。

 自分の地域で何ができるかと考えた時に、男性を誘って一緒に話したり作業したりする中で、課題を解決していけんかなって思いました。高齢化が進む地域の現状を共有し、隣近所でどう支え合うか。地域の防災力をどう高めるか。男女共同参画推進員や婦人会の活動を通じて一緒に考え、手を携える場を作るようにしてきました。やってみると、意外と素直に女性の意見も大事だと分かってくれた人もいました。

 とにかく、一歩前進する。それが大事です。北京会議が、そんな気づきと行動のきっかけになりました。(聞き手・竹田和博)


兵庫・尼崎 2002年から5期連続で女性市長 就労条件の是正訴え
 兵庫県尼崎市からは「尼崎・北京の会」の34人が現地入りしました。労働者のまちとして栄えた尼崎。性別による不平等な就労条件を訴えようと、ワークショップ「パート労働と尼崎の女性」を開催し、他国の参加者らと意見交換しました。

 34人は市議6人や地域活動や行政に携わる人など様々。つながったきっかけは1992年に市議会で発覚した、全議員がかかわる不正出張です。「底なしの腐敗」に憤った市民らの運動で、翌年議会が解散し、運動に加わった女性らが出直し市議選で当選。女性議員は5人から10人へ倍増しました。内田信子さん(72)もその一人。「その勢いで北京にも参加しようと、超党派で市民団体に呼びかけました」

 94年の市議会で内田さんは市からの団派遣を提案したが、「そんなもん自分の力でやらんか」と男性議員にやじられました。

 翌年1月、阪神・淡路大震災が起きた。「こんな時に参加していいのかどうか悩んだ」と振り返るのは、ボランティア活動などをしていた川本ミハルさん(77)。震災対応で北京に人を出せない県関係者から「行ける人は行って」と背中を押され、自費とカンパで34人が出発。「震災と女性」もテーマに加え、震災後に女性が解雇されるなど、普段立場の弱い人がよりつらい目に遭う現実を発信しました。

 女性団体で活動していた三谷順子さん(70)は「この25年間で様々な当事者が声をあげ、しんどい人に寄り添う活動が増えた。若い世代が担っていることに希望がある」という。一方、不平等は解消されていない。内田さんは「他国は努力して政策で格差を縮めた。日本は政策の実効性が乏しい」とみています。

 参加した6人の市議のうち、白井文さんは2002年に最年少女性市長に。稲村和美・現市長が続き、尼崎は通算連続5期18年間、女性が市長です。「市長って男でもなれんの?」と市内の子どもが言ったというエピソードもあります。(中塚久美子)


タテとヨコの連携 課題
 ジェンダー平等の歩みや課題を世界規模でふりかえる「北京+25」に向け、国連女性機関(UN Women)が設置した「北京+25ユースタスクフォース」で活動する山口慧子さん(29)にも聞きました。

      ◇

 多様な背景をもつ30カ国の20代30人で、「北京+25」のレビューに若者の声を反映させるため、若者が直面しているジェンダーに関する課題について議論してきました。コロナ禍で主要イベントは軒並み延期となってしまいましたが、10代の新メンバーも加わり、来年9月の国連総会まで引き続き活動します。

 ジェンダー平等を進めるためには、既成概念や社会制度など、さまざまな「当たり前」を変えていく必要があります。ものごとを決めるプロセスに、若いフェミニストの視点がもっと入るようにすることが、その推進力になると考えています。

 ジェンダーにまつわる身近な課題について声を上げ、改善のために行動する若者は、日本でも増えています。ただ、海外と比べ、日本ではヨコの連携が弱く、政府のカウンターパートになるほどの影響力を持てていません。「北京世代」の経験や知見が、若い世代に十分伝わっていないのも残念なことです。

 若者のジェンダー問題への関心が一過性で終わらないよう、個人や団体同士が連携し、そして、上の世代が達成してきたことや、個々の生きづらさの背景にある構造的な暴力について学ぶことが、若い世代の課題だと考えています。(聞き手・三島あずさ)

     ◇

 25年前、母(70)も区の公募メンバーとして北京に行き、高揚感いっぱいで帰国しました。その後は審議会の一員として男女平等推進条例づくりにも関わりましたが、「格差の是正をうたっても実効性はなく、理念的なものにとどまった」と振り返り、長時間労働をはじめとした男性社会の「当たり前」を変える運動を展開できなかったと悔やみます。

 社会学者の上野千鶴子さんは、北京女性会議の頃を「行政とフェミニズムの蜜月。日本の女性運動のピーク」と評しました。全国に建った女性センターは、行革の波を受けて機能を縮小。世代を超えた運動の継承も進んでいません。最近はツイッターで元気に発信するフェミニストたちに中傷や反発が投げつけられ、あらわになった溝に胸が痛みます。

 平等実現の道は険しいですが、現状に絶望せず、よりよい未来にいかに近づくか。北京に行った母からの娘への宿題です。(机美鈴)