診療の基本
A Standard for Medical Care and Clinical Practice
母体保護法
経済的理由の認定基準として、昭和28年(1953年)厚生事務次官通知が引用されている。
1.はじめに
1948年,世界医学協会第 2 回総会で選定されたヒポクラテスの誓いの中に,『人間の生命を受胎の初めから至上のものとして尊重する』という項がある.同じ年の昭和23年 7月13日,現在の母体保護法の前身である優生保護法が公布され,同年 9 月11日実施された.この法律の特徴は,人工妊娠中絶を行い得る指定医師の資格審査を民間団体である都道府県医師会が行っていることである.つまり,特別な資格を付与される場合は必ず何らかの監督,審査を受けるものであるが,本法にはそのようなこともなくすべて自主的運営に任されている点である.したがって,指定医師を取得した者は,この点を認識し,本法の主旨に反せぬように十分な自重,自戒が必要である.
2.日本の法律
われわれ産婦人科医にとっては医師法,母子保健法,母体保護法,労働基準法などがはじめにあるように考えがちであるが,わが国の法律は以下に示す 6 つの法律を基本的なものとし,その他の法律はこれらの基本法(六法)を詳細に規定したものと解釈しているのが一般社会通念である(表 1 ).このうち,日本国憲法が最高位にあり,その第25条に生存権,国の国民生活環境保全向上義務を謳っており,この基本的な法を基に,民法,刑法にもこれに関連した運用のための法が存在する.その下に,医師法,母子保健法,労働基準法,母体保護法などが存在している.さらに,これらの法律を実際的に運用するに当り,
各担当の省庁が施行法として実務的な運用を規定し,地方自治体の制度が加わってくる.
3.母体保護法
本法は 7章(第 4 章~第 5 章削除),39条(第 4 条~第13条,第30,31条削除)よりなり,その主な内容は,不妊手術,人工妊娠中絶,家族計画指導などに関する事項である.
第 1 章総則(第 1 条~第 2 条)(目的,定義)
母体保護法の目的,不妊手術,人工妊娠中絶の定義などが記載されている.(表1) 日本の基本六法
1.日本国憲法 ― 国家の基本法
2.民 法 ― 日常生活にまつわる法律
3.商 法 ― ビジネスに関連する法律,社会関係が中心
4.民事訴訟法 ― 民事裁判手続についての定め
5.刑 法 ― 犯罪と刑罰を定めた法律
6.刑事訴訟法 ― 刑事裁判手続についての定め母体保護法の位置付けは,日本国憲法,その下の刑法のうち,第 213条(同意堕胎及び同致死傷),第 214条(業務上堕胎及び同致死傷),第 215条(不同意堕胎)等に対する例外法として存在するものである.すなわち,われわれが感じている法のイメージと一般社会がもつそれとは大きく異なっている.
第2章(第 3 条)不妊手術
不妊手術の適応などが述べてある.
第3章(第14条~第15条)母性保護
人工妊娠中絶,受胎調節実地指導などが述べられている.
第6章(第25条~第28条)届出,禁止,その他
届出,通知,秘密の保持,禁止などが述べられている.
第7章(第29条,第32条~第34条)罰則
附則(第35条~第39条)
(1)不妊手術
不妊手術は,生殖腺を除去することなしに,生殖を不能にする手術で厚生労働省令(母体保護法施行細則第 1 条不妊手術の術式)をもって定めるものをいう.人工妊娠中絶と異なり医師であれば実施してよい.この点が人工妊娠中絶と大きく異なる.しかし,人工妊娠中絶手術と同様に,配偶者の同意が必要である.さらに,不妊手術を行った場合には,その月中の手術の結果を取りまとめて翌月10日までに都道府県知事に届けなければならない.
(2)人工妊娠中絶
1)定義の確認
人工妊娠中絶とは,胎児が,母体外において,生命を保続することのできない時期に,人工的に,胎児およびその附属物を母体外に排出することをいう.と定義されている.胎児が生命を保続することができない時期については,昭和28年では,妊娠 8 月未満,昭和51年では,妊娠満24週未満,平成 2 年には現行の妊娠22週未満となっている.これらの時期に関しては,いずれも厚生事務次官通知による.また,附属物とは,胎盤,卵膜,臍帯,羊水のことである.
2)人工妊娠中絶と他の医療との差異
人工妊娠中絶手術は,次の諸点において,中絶以外の医療行為とは大きい差異がある.
①人工妊娠中絶の影響は大きい
本来,この手術は,個人の生命,健康の保持・増進の目的をもって行うものであるが,妊娠が成立する背景には多くの複雑な社会事情が存在している.これには,人口問題や社会道義,秩序とも深いつながりをもっている.
②指定医師のみが行いうること
人工妊娠中絶手術は,指定医師のみが行い得るもので,指定医師以外は行うことができない.このことについては,過去,指定医師以外と指定医師の格差,独占禁止法との関係について激しく協議された時期もあるが,現行のままというところに落ち着いている.
③母体保護法に定められた適応(表 2 )のある場合にのみ行い得ること
母体保護法により規定されている.したがって,この適応を無視した場合は母体保護法違反となる.
④中絶は患者の求めに応じて行うものではないこと
中絶以外の医療については医師法第19条(後述)にあるように拒むことができない.本手術は患者の求めに応じ,希望によって行うものではなく,中絶の適応があると指定医師が判断した場合にのみ行うべきもので,この点が前述の医療法との大きな差異がある点である.つまり,適応がないと指定医師が判断した場合には,これを拒まなければならないということである.
⑤人工妊娠中絶後は届出の義務があり(第25条),これに反した場合には罰則があること(第32条)も知っておかなければならない.(表2) 母体保護法に定められた適応
母体保護法第 14条
第 1項
第 1号 妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
第 2号 暴行若しくは脅迫によってまたは抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの
第 2項 前項の同意は,配偶者が知れないとき若しくはその意志を表示することができないときまたは妊娠後に配偶者がなくなったときには本人の意思だけで足りる.
⑥人工妊娠中絶を行う場合には,第14条第 2 項の例外を除き,配偶者の同意が必要であること(第14条)
以上の点がその特徴である.
4.母体保護法とその他の主な関連法
(1)母体保護法と軽犯罪法
母体保護法と無関係に思われる軽犯罪法の中にも,第 1 条18項に自己の占有する場所内に,老幼,不具若しくは傷病のため扶助を必要とする者または人の死体若しくは死胎のあることを知りながら,速やかにこれを公務員に申し出なかった者.とある.すなわち,胎児の死体を発見した場合は,所轄の警察へ届出の義務が課せられている.
(2)母体保護法と医師法
母体保護法と関連する医師法には,以下の条項が存在しこれらを遵守しなければならない.医師法19条(診療に応ずる義務等)2 項に,診察若しくは検案をし,または出産に立ち会った医師は,診断書若しくは検案書または出生証明書若しくは死産証書の交付の求があった場合には,正当の事由がなければ,これを拒んではならない.医師法第20条(無診察治療等の禁止)には,医師は自ら診察しないで治療をし,若しくは診断書若しくは処方箋を交付し,自ら出産に立ち会わないで出生証明書若しくは死産証明書を交付し,または自ら検案をしないで検案書を交付してはならない.但し,診療中の患者が受診後24時間以内に死亡した場合に交付する死亡診断書については,この限りではない.医師法第21条(異状死体等の届出義務)には,医師は,死体または妊娠 4 月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは,24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない.
5.妊娠中絶実施前後の書類
妊娠中絶の実施前とその後では,必要な書類の作成・提出が妊娠週数によって定められている.
(1)妊娠中絶実施前
人工妊娠中絶は患者の求めや希望であっても,法に定められた適応がないと指定医師が判断した場合には行うべきではない.母体保護法第14条には,2 項の適応基準が存在するが,第14条 1 項の内,身体的理由,経済的理由の認定基準を以下に示す.なお,第14条 2 項はその状態を把握するのは非常に難しい.刑事事件として被害届が出る場合は,現在各県によって若干の差異はあるものの担当警察官が立会い,その状況を把握しているので被害者が妊娠した場合には,その確認を行うことを勧める.しかし,被害届の出ていない場合には本人の話しだけでの状況判断は危険であり,保護者や第 3 者となる者との十分な了解を必要とする.
1)身体的理由の認定基準
医学的適応については,母体に何らかの疾患があり,妊娠・分娩によって悪化して,母体の健康がそこなわれ生命を危うくすると予想される場合である.
①疾患を有している母体の場合
カルテには単に病名だけを記載でなく,
a.その疾患が治療を要すべき状態であったかどうか
b.具体的な治療内容を記載するとともに
c.その疾患に対する主治医の診断書
をとっておくことも勧める.疾患によっては一過性であって,適切な処置・治療によって妊娠中に経過,治癒すると思われるものは中絶の適応にはならない.例えば,感冒,インフルエンザ,風疹,トキソプラズマ,梅毒,淋疾などである.
②妊娠経過に異常がある場合
例えば重い妊娠悪阻があり治療によっても悪化して,母体の健康が著しく害されるおそれがある場合などである.
流産や胞状奇胎は治療であるので人工妊娠中絶ではない.
③現在特別の疾患はないが,身体虚弱で妊娠の継続,分娩によって健康を著しく害すると予測される場合
特に疾患がない場合には,妊娠を持続することにより母体の健康を著しく害するおそれがあると認められると,カルテ・中絶報告書に記載する.
2)経済的理由の認定基準
経済的理由は母体の健康がそこなわれるおそれがあるための一要件である.医師による「経済的理由」の判断は甚だ困難であるが,現在なお存続する厚生省の運用通知(昭和28年 6 月12日厚生事務次官通知)には,この条項の該当理由として次のように指示している.
①現在生活扶助,医療扶助を受けているか,またはこれと同様な生活状態にある場合
②生活の中心になっている本人が妊娠した場合
③上に該当しなくても,その世帯が妊娠の継続または分娩によって生活が著しく困窮し,生活保護の適用を受けるに至るべき場合
①の場合には明らかに認定できるが,それ以外の場合には,家族の構成,生活の中心が誰であるのか,収入はどの位あるのかなどを聴取すること.また,人工妊娠中絶を受ける者が妊娠,分娩によって如何なる身体的障害を受けるおそれがあるかを記載しておく必要がある.
3)同意書
①人工妊娠中絶の同意書
母体保護法による不妊手術または人工妊娠中絶を実施するには,すべての場合に本人の同意と配偶者の同意を得なければならない.配偶者とは,
a.民法上に記す届出によって成立した婚姻関係にあるもの
b.届出はしていないが実質的に夫婦と同様の関係にあるもの
と民法上の規程が適応される.ただし,母体保護法では本人および配偶者が成年に達しているかどうかは問題にされていない.したがって,一方または双方が未成年者であっても適法な同意を行うことができる.ただし,不妊手術の場合は,未成年者は適法な同意をすることはできない.
②中絶方法と麻酔に関する同意
一般の手術と同様,人工妊娠中絶を行う場合にも,具体的な中絶方法,麻酔を必要とする場合,それらに対する説明と同意を得ておくことは必要なことである.
以下引用省略
http://fa.kyorin.co.jp/jsog/readPDF.php?file=to63/59/3/KJ00005049893.pdf