中央公論社1985年刊 1945年9月から始まった強制中絶のドキュメント
日本の産婦人科医の戦後は搔爬法から始まった。まだ優生保護法が存在していなかった敗戦直後の1945年9月上旬に、九州大学医学部産婦人科の助教授が厚生省に呼び出され、引き揚げ船で入港してくる女性たちを検診し、「異民族のタネ」を水際で根絶せよとの命令を持ち帰ってきた時、主に採用したのが「搔爬手術」だった 。妊娠後期に入ると搔爬の代わりに人工早産させる「分娩誘導法」が行われ、その場合、胎児のほとんどは生きたまま生まれてきたという。敗戦の年の秋から検診を続けてきた九大の若い医師たちは、1947年6月頃に約二十ヵ月に及ぶ激務から解放されたという。
同じ年の末、第1回国会衆議院厚生委員会に優生保護法案が提出され、12月1日には社会党の加藤シヅエが優生保護法案提出の説明を行った。この時の加藤の他、やはり社会党の衆議院議員で医師でもある太田典礼と福田昌子を加えた3人による社会党法案は、1940年に制定された「国民優生法」を改正する形で、母体保護のために「中絶の合法化」に重点をおいた新しい法律の制定を目指したものだった。優生学的適応の半ちゅうではあったが、母体の生命だけではなく「健康の危険」や「強姦その他不幸な原因」での妊娠の規定まで設けた当時としてはきわめて革新的な内容だったが、審議未了で廃案になった。
国会終了後、参議院の保守党の医系議員谷口弥三郎から、「自分たちが参議院に出した方が通りやすい」と協力を持ち掛けられた時、当初、社会党系の議員たちは警戒したという。しかし、その後「参議院提出」に同調する保守系の議員がふえていき、社会党議員たちは妥協せざるをえなくなった。結局、法案は超党派で衆・参同時提出、参議院先議ということになった。法案提出者は、衆議院では社会党の三名に保守系三名の六名、参議院では余命全員が保守系、合計十名のうち七名が保守系で締められ、法案の主導権は革新系の議員から保守系の議員の手に移っていた。
中絶医療は誰のものなのか。いろいろ考えさせられる一冊だ。