リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

『子殺し』について ”集会のビラ” ? という妙なビラに反論… 中ピ連

資料 日本ウーマン・リブ史Ⅱ 1972~1975 溝口明代・佐伯洋子・三木草子編 ウィメンズブックストア松香堂

中ピ連の主張を2つ書き写してみる。少なくともこうした主張については、何ら問題を感じない。また、なぜ彼女(達)がこれほどしっかりと「女の中絶の権利」を確信できていたのか、その思想的背景を知りたいけれども、もはや分からないのだろうな……と思うと残念でならない。

 先日10月14日に中ピ連が独自のデモを展開した時のことが朝日新聞に報道された。その記事の中で、集会でまかれたビラからといって次の文章が引用されていた。

――(未婚のわが子をセッコウ詰め、の記事をみて)
「思わず持っていた新聞から目をそむける。そむけつつ『なんで中絶しなかったのだろうか』と怒りにも似たおもいがよぎる」――

しかしこの文章は私達の出したものではなく、後で問いあわせたら中ピ連で出したビラと思い違って引用したという。この引用文に疑問をもった私たちは、そのビラの出所と、もしかしたらその引用がそのビラの意図したところから切り離されて引用されたのかも知れない、と思いそのビラを読み返してみました。しかしそのかいもなくそのビラの内容にはかなりの疑問をもたざるをえませんでした。今回はそのことについて、私達なりの見解を述べてみようと思います。
そのビラのタイトルは

「中絶は女の既得の権利か? あえて提起する。」*1

そのビラの中からの引用文

「腹の子には生きる権利がないということか。」
「社会の悪はどこまでも社会の悪として追及せねばならない。しかしだからといって『こんな世だから堕して当然という開き直りは許せるものなのか!!』またそのような開き直りは結局はこのひどい世の中を逆説的に肯定することにはならないか!!」

女の中には孕める者と共に孕めない女がいる。生める女が生めない、生みたくないといい、孕めない女が生みたいといってもそのどちらも正当だ。この世にはあらゆる状況の女達がいる。それぞれの女達がそれぞれの状況において自らの生き方を自由に選ぶこと、生むか生まないかを決めること、これが私達のめざす一つの方向ではないのだろうか。その為に、生みたい女が生むために、母体を傷めることのないあらゆる方法を女の手に握らなければならないのではないか。孕める女が生みたくないということを、又孕めない女が生みたいということを、どちらかがおかしいなどとはいえない。
 この社会はどの女に対しても十把からげ(ママ)にして生むことを当然と押しつける。そして一方孕めない女を邪魔もの扱い。さらに障害者に対しては生むことの選択権すら完全にとりあげてしまおうとする。生みたいのに生むことを圧力的にやめさせたり、生みたくないのに生まされたり。たとえ生みたくて生んだとしても女をとりまく現実はあまりにひどい。仕送りしてくれるはずの男が裏切った。妊娠した為に働けない。働けないから出産の費用が出せない。出産の苦しみは軽減されようもない。育児の重労働と精神的重荷が女にすべておっかぶせられる。住む家がなかなかない。あったとしても隣を気付かわねばならない。子供がいるから働けない。ミルク代がない。何とか仕事をみつけたとしても給料は安い。これらが多様に入り組んだ現実にこそ女は落しこめられている。
 最近、新聞に毎日のように、「子殺し」の記事は載せられる。女の置かれているものがこのようなひどい状態であるならば、追いつめられた女が、自分が生きるか殺されるかのどちらかだという極限状態に追いつめられた女が、子供の首をしめたということをどうして責められるだろう。その女に向って「何故中絶をしなかったのだろうか」とどうして言えるだろう。それは傲慢以外の何であろうか。「子殺しの女」を私達は責めることはしない。いやできない。彼女をそれまでに追いつめたものにこそ、私達の怒りの目は向けられる。
 妊娠した女に向って「何故避妊しなかったのか」というのは「男」のセリフだ。子殺しの女に向って「なぜ中絶しなかったか」というのはその延長だ。
 完全な避妊法も知らされず、女が無理やり生まされたり、堕されたり、子を殺させられたりすることが社会の悪であって、それこそ問題なのであって、中絶をした女を、子殺しをした女を責めることはできない。
 女が生みたい時に生み、生みたくない時に中絶することは、この「ひどい世の中」から身を守る一つの手段になりこそすれ「逆説的肯定」などとはなり得ない。
 私達はこんな世だから堕すのは当然、別の世になれば当然じゃないといっているのではない。たとえどんな時代がこようと、避妊や中絶の知識をもっていようといまいと、生むか生まないかの選択権は女の側にあり、その権利を行使できるためのあらゆる手段が女の側に与えられねばならないのだといっているのだ。たとえ「社会主義社会」なるものができたとしても、女は生まされることになるのかも知れないのだから。
 中絶は必要悪なんかじゃない。「腹の子に生きる権利がないということか」という文章には、まずどうしてこういう発想が出てくるのだろうかと思った。どうして胎児が生きる権利があるとかないとか言えるのだろうかと。かりにあるとしたところで、生れたくない権利はどうするのかと単純に思ってしまう。胎児が生きたいか生きたくないかはわかろうはずもない。「腹の子」の「生きる権利」などというときには、その胎児を生まれさせたいという願望からだと思う。願望であるならばそれでいい。しかし、胎児には生きる権利があって、女は中絶をすることが基本的に誤っているというならば、それは何がなんでも生ませようという、女の主体を無視した子生み強制へと容易に変わりうる。そこに流れているものは、女の腹は借り物という思想だ。
 生むことをどんな理由で拒否しようとそれは現実の「逆説的肯定」なんかじゃありえない。生みたい女が生みたいと叫ぶのもしかり。たとえ生んだとしても、程度の差こそあれ女を落しこめる状況は厳然としてある。
中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合中ピ連)〕(『ネオリブ』第6号 1972・10)

「中絶は女の権利」は障害者差別ではない! 中ピ連

 我々はこれまで一貫して現行優生保護法を堕胎罪と共に中絶禁止法ととらえ、今回の改悪はその中絶禁止をより強化せんとするものであることを主張し、この政府の攻撃に対し「中絶は女の権利」であることを強く主張してきたのである。
 ところが我々の主張に対し、「『生む生まないは女が決める』となると、実際には胎児が障害者だとわかった場合おそらく誰も生まないだろう。つまりそれは政府の肩がわりに過ぎず、それは障害者差別である。」という論理でもって反対し我々の運動の脚を引っぱってきた部分がかなりいる。
 おそらく障害者にとっては、”障害者だから中絶する”ということは自分達が抹殺されるような気がしたに違いない。しかし、今の社会で、女に対し”障害者でも生め”ということはいったいどの様な事態を意味するのか! それはまさに生んだ女に対する死の宣告であろう。(障害児を生んだ場合に限らないが)ほとんどの生んだ女にとって育児が強制されることは明白なことであり、そのことによって女は殺されてゆくのである。障害者を生むか生まないかは、女にとっては自分が生きるか死ぬかのぎりぎりの選択であり、それは女自身にしか選択できない問題である。このことは胎児が健常者の場合であっても、多くの女にとっては同じである。育児を強制された女がどれだけ死んでいるかは商業新聞の心中、自殺の欄を見ただけでも少しはわかるであろう。
 現社会において、女に対し、「障害者でも生め」というのは、障害者が生きようとするエゴであり、女が「障害者だから産まない」というのは自分が生きるためのギリギリの譲れないエゴであり、これは生きようとする者のギリギリのエゴとエゴのぶつかり合いにほかならない。そのことを「差別」と称し、だから「中絶は女の権利」といえないというのは、我々の運動の脚を引っ張る以外の何ものでもない。我々は胎児が障害者だろうと健常者だろうと生む生まないは女が決めることであり、「中絶は女の権利」であることをこれからもはっきりと主張していく。障害者の問題、子供を育てられない状況を変える問題は社会福祉・社会変革の問題であり、それぞれの立場からの闘いが必要なのであって女が中絶の権利を要求する運動は、障がい者の運動に何ら敵対するものではない。
 ところで「中絶は女の権利とは今は言えない」と言っている姉妹達がいる。しかしこれは、はなはだ誤った現状分析である。今こそ「中絶は女の権利」と声を大にして叫ぶ時である。なぜなら今政府は生める状況はいっさいつくらずして、女に子供を生ませようとちゃくちゃくともくろみを進めているではないか。(しかも資本にとって有効に役立つ健常者を生ませようとしているのである。)それはピルの販売制限、0歳児保育所の閉鎖の方向、今回の中絶の締めつけなど具体的な形ですでに行われているのである。このような状況の中で「中絶は女の権利」と主張することが、まさに今政府に対する反撃となるのである。


女の視点に立った強固な改悪反対運動を!
 現在の資本主義社会においてはあらゆる人間関係にある区別がすべて差別となりうる。意識するしないにかかわらずこの体制内に生きていること自体が差別を支えているのである。
 たとえば、女に対する男。障害者に即する、健常者。在日朝鮮人に対する日本人等々…。このような差別の重層構造を根底とした社会に存在している限り、いくら「私は…を差別していない」と言おうが言うまいが、差別の関係から抜け出ることは決してできない。
 それゆえ、それぞれが、それぞれのおかれた状況から差別と闘っていくことこそが、一番強固な運動となりうるであろう。
 だからこそ我々は女の立場から女の解放を目ざして戦おうとしているのである。
 そして今我々は女の基本的権利である「中絶」の自由化を全面的に勝ち取るべく運動を進めているのである。
 この我々の正当な運動に対し、女としての視点を捨て去り、我々の運動の脚を引っぱり続けてきた姉妹達の、女を裏切った責任は大きい。
 障害者の人達が今度の改悪を、障がい者に対する差別を一層強化しようとするものであるととらえ、その視点に立って改悪反対を主張するのは当然のことであろう。
 それぞれの立場で改悪反対運動を進めることが一番大きな力になりうるのである。
 姉妹達よ! 今こそ女の視点に立った中禁法反対の運動を推し進めていこうではないか! あらゆる女の運動に対する非難、中傷、妨害をはねのけ、女性解放に向けて一歩一歩強固な戦いを組んでいこう!
中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合中ピ連)〕(『ネオリブ』第28号 1973・8)

*1:同じ本に収録されている〔リブ新宿センター〕の文責・田中美津とされている「敢えて提起する=中絶は既得の権利か?」に該当すると思われる。