忘備録
医の倫理の基礎知識 2018年版【生殖医療】D-5.母体保護法とその問題点 石井美智子(明治大学法学部教授)
産まない産めない―優生保護法と戦後(中)女性と障害者、せめぎ合った権利|【西日本新聞me】
個人の尊厳や平等を定めた憲法下で、強制不妊手術など障害者の「産めない」を正当化した優生保護法が、1996年まで48年間も続いたのはなぜか。
【関連】産まない産めない―優生保護法と戦後(上) 母体を守り「劣悪者」を否定
背景には、「女性」と「障害者」という二つの人権のせめぎ合いがあった。
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法の目的だった戦後の人口過剰問題は、10年足らずで終息した。人工妊娠中絶は年間100万件を超え、48年に4・32だった合計特殊出生率が2・0前後まで落ち込むと、今度は経済成長に乗り遅れぬよう、労働力不足が叫ばれた。
72年、政府は改正法案を国会に提出する。狙いは二つあった。
まず中絶要件の一つ、「経済的理由」の削除を求めた。中絶の大半は、多産のため産みたくないといった健常者で、「経済的理由」を拡大解釈して適用されたものだった。女性の「産まない」権利はこれによって保障されていたといえる。
もう一つは、胎児に障害があれば中絶を認める「胎児条項」の新設。国内では68年から妊婦の羊水検査が可能になり、胎児に一部の障害があるかどうか分かるようになっていた。同法は障害者から「産む」権利だけでなく、「生まれる」権利まで奪おうとしていた。
この改正案に反対ののろしを上げたのが、女性団体と、脳性まひ障害者でつくる「青い芝の会」だ。
米国で60年代に始まった女性解放運動(フェミニズム)は日本にも波及し、女性たちは「産む産まないは女が決める」と主張した。
一方、改正案を新聞で読んだ時の衝撃を、青い芝の会元会長で運動の支柱だった故横田弘は2004年の著書で振り返る。
〈障害児は母親のお腹(なか)の中から消してもかまわないというのです。(略)これはもう誰がどう言おうが結局は障害者が生きているのは間違いだという生存権否定以外の何物でもありません。(略)ものすごい恐怖でした〉。そして女性団体への嫌悪感も記す。〈万一「障害児を産まない女性の自己決定」が社会に浸透するとしたら-〉
女性と障害者。片方の権利が、もう片方の権利を縛り、脅かす。それぞれの反対運動を受け、改正案は廃案になった。互いの主張は、平行線のままだった。
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1983年3月。福岡市にあった市女性会館。反対集会に集った100人余りの女性を凍り付かせたのは、福岡青い芝の会会長中山善人(65)の発言だった。
「俺たちはあんたたちに殺されてきたんだ」
前回の動きから10年。政府は82年、再び法改正に動いた。今度は、女性たちは障害者に向き合う。中山のように厳しい意見にも耳を傾けた。
政府が法案提出を見送った後も、福岡市では女性団体が月1、2回、青い芝の会会員を招いて学習会を開いた。1人暮らしの障害者の家に交代で生活介助のボランティアに入り、福祉の貧困を実感する。
行き着いた答えは、「中絶を選ばざるを得ない社会状況こそ問題」。女性と障害者が対立する構図ではなく、差別される者として共に闘える-。
その答えは、女性で障害者という「二重の差別」を受けてきた人々につながった。94年、エジプト・カイロで開かれた国際人口開発会議の非政府組織(NGO)フォーラム。難病の骨形成不全症を患う安積(あさか)遊歩が車椅子で登壇し「障害者の産む自由を奪っている」と同法の差別性を告発した。これを機に、国際社会からの非難という“外圧”が日本にかかっていく。
産まない産めない―優生保護法と戦後(下)内なる優生思想は今も|【西日本新聞me】
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