リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

戦後の引揚げ女性に対する強制中絶について

忘備録


忘却の引揚げ史: 泉靖一と二日市保養所
著者名等 下川/正晴‖著(シモカワ,マサハル)
出版者 弦書房/福岡
出版年 2017.8


語らなかった女たちー引揚者・七〇年の歩み
鈴木 政子 (著)
本の泉社 (2017/12/18)


番組名
[証言記録 市民たちの戦争]“引き揚げ”の嵐の中で ~京城帝国大学 医学生の戦争~
収録年月日 2010年2月17日
「引き揚げ後の中絶手術」
一部、書き写します。

 二日市の保養所はね。まず引き揚げ者が、博多の港に船が着くでしょう。リバティというアメリカの輸送船が今でも運行していると思うんだけど、輸送船だから人間じゃなく貨物の輸送ね。だから船底に大きな荷物を入れていく。客室はないのよね。で、積んでいくの、船底に。大きな船があるでしょう、リバティ。あの船をアメリカが、無償かどうか知らないけれど、日本政府に貸してくれたわけよ。その船、何隻も貸してくれたのよね。リバティという貨物船、アメリカはいっぱい持ってたみたいね。だから、戦争中は兵隊を輸送するために、アジアに送るためにも使ったでしょうしね、荷物を、弾薬運ぶのにも使ったろうし、あのリバティってすごい船だった。今でもあると思うんだけどね、貨物船として。
 その貨物船を日本の政府が借りたかどうか、そのいきさつは知らないけれど、その船で引き揚げ者を迎えに行ったんです。博多の港と葫蘆(ころ)島。


Q:吉田さんは二日市の保養所では何をされていたんですか。

 看護婦の仕事。二日市の保養所は、博多の港に船が着くでしょう。そして、問診て、言葉かけの診療があるんですね。それで、問診によっておなかの大きい女の人がたくさん出てきたのよね。そういう人をそのままふるさとに帰すわけにいかないので、二日市の保養所で、ハシヅメ先生といったかな、婦人科の先生は。厚生省の働きで始めたんだけどね。堕ろす施設ができたの。
 堕ろすの、赤ちゃんを。海軍の保養所だったの、戦争中は。海軍の軍人て船の中ばっかりにいるから、陸に上がったときはそういう保養所で保養させないと精神的にまいるみたいね。海軍の保養所が福岡県の二日市温泉という温泉があるんだけれど、その二日市に厚生省の保養所としてあったし、今もあるよ。そこを日赤が堕ろすための施設として使ったの。


Q:どうして堕胎するんですか。

 どうしてって、そのまま帰ったら、誰の子かわからん子を、ふるさとというか自分のふるさとに帰って育てていかないといけない。そんな育てるような余裕ないでしょう。みんな着のみ着のままで逃げて帰った人は、その子どうやって育てる。お金もないのに。その人が生きるための手段として堕ろした。誰の子かわからないでしょう、強姦されたら。逃げて帰る途中で強姦されているんだから。北朝鮮からソウルまでは歩いて帰らないとね。輸送してくれないんだから自力で帰らないと。お金もないし、歩いて帰らないと。ソウルに来たら南朝鮮だから、アメリカ軍が何とかしてくれたわけよね。ソウルから北はロシアだから何にもしてくれない。


Q:初めてその女性たちを見たとき、どんな様子で、どう思いましたか。

 物言わない。とにかくね、黙ってる。物言わない。二日市の保養所ね、海軍の保養所だから、個室もあって、大部屋もあって、わたしたちは大部屋で暮らしていたようだけど、その人たちは辱めを受けて堕ろしてつらいね。わたしも、堕ろすなんていうことも知らないでしょう、まだ18~19でね。わからないでしょう。ただ、かわいそうに、かわいそうにと思うのよ。

 そんなに暴れなかったね。暴れる体力も気力も、打ちひしがれて。普通なら、「あんたどこでどうだった、ああだ」って、普通なら話すじゃない、普通の生活してたら。みんなが無口。つらーい目にあってるから。そうよ、そうですよ。みんな未婚の若い、そんな経験生まれて初めて。自分から好んでやったパンパンとは違うからね。犯されて、連れ去られて、もう物言えない。涙も出ない。「何が起こったの、わたし。わたし、これ何。これわたし?」というような、そんな感じ。知らないけど、その経験ないからわかんないけど。じゃないかと思うよ。年いった人は、「わたしは大変な目にあったんだ」とか思ったかもしれないね。でも、若い子は何が何やら訳わからん。ねぇ。と思うよ。
 それから、二日市の保養所に運ぶまで、物言わないんだもの、皆。一言も。バスなんかないからトラックで運ぶのよ。二日市の保養所までぎゅうぎゅう詰めでね。物言わないの。

 つらいつらい思いしてここで堕ろした人たちは、一言も物も言わず、言わないのよ。泣き声も出さず、堕ろすとき、今よりは麻酔薬も効き目の薄い麻酔薬だったと思う。戦後だから。今はもう痛くないような麻酔薬あるんでしょうけど、わたしは手術したことないからわかんないけどね。戦後だもの。日本の国が医薬品どころか鉄砲の弾も持ってないような時代に、痛み止めの注射薬なんかなかったでしょうね、あんまり。それがね、ぎゃーぎゃー泣く人いなかったから。それくらいつらい思いして逃げて帰ってきたんだと思うよ。