リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

一昨年,母性衛生学会で中絶に関する発表をした時,「中絶で傷ついているのは,中絶される胎児や中絶手術を受ける女性だけではない。中絶の現場で働く医療従事者も傷ついており,中絶の犠牲者だと言えるのではないか」といった話をした。話し終えた後,すぐさま近づいてきてくれた看護師さんらしき女性に,「これ読みましたか?」と言われたのがこの本だった。(最近,文庫も出たようだけど。)

天使の代理人

天使の代理人

中絶されようとしている胎児の命を救おうと,「代理人」をかってでた助産婦たちの物語である。それ自体はフィクションだけど,取材がきめこまやかで,手術シーンや,さまざまな立場の関係者たちの心理描写がなかなかリアルな作品だ。中期中絶の胎児が生きて飛び出してくる冒頭のショッキングなエピソードは,実際の現場でも起きていることだと医療関係者から聞いたことがある。でも,決して暗くて重いおどろおどろしい話ではない。ややファンタジーめいた要素もあって,トーンはどちらかといえば軽やか。一読すれば,中絶問題のいくつものポイントが分かるようになっているし,プロライフやプロチョイスの主張も,やや誇張された形ながらコンパクトにまとまっているので,生命倫理の人などにもお勧めしたい。

それでちょっと思い出すのは,1970年にアメリカで最初に中絶が合法化されたハワイ州で,医療関係者がアイデンティティ・クライシスに見舞われたという話。人が好き,赤ちゃんが好きで,産科病棟で嬉々として働いていた人が,突然,中絶の現場に回された時のショックは格別のようだ……。日本でも,産婦人科の医師や看護師になった女性たちから,同様の嘆きを聞かされたことがある。それでも,多くの人は単に我慢しているか,いつしか自分をごまかすすべを学んでいくのだろうか……。

中絶の犠牲者は,胎児だけではない。ある中絶本の著者が言っているように,中絶は罠に捕まった動物が自分の脚を噛み切って逃げるようなものだとすれば,中絶を受ける女性たちのほとんどが,何らかの傷を負っている。だけど,仕事として中絶処置を扱わねばならない局面に陥った医療従事者たち……特に,手術後の後始末をさせられている看護師や助産師の女性たちの傷つきも決して小さくはない。むしろ,日常的に中絶にさらされているという意味で,彼女たちには傷を癒す暇すら与えられていないかもしれない。そういえば,横浜の産婦人科で中絶胎児を切り刻んで生ごみとして捨てていた問題が表沙汰になったのは,胎児を切り刻む作業をやらされていた病院のスタッフの告発が発端だった。

しかし,彼女たちの憤りが告発という形で社会に向かうことはごく稀だ。医療従事者の側に日々堆積していく憤りは,中絶をせざるをえない状況に追い込まれた目の前の女性たちへの激しい非難や鬱屈した怒りとして噴き出し,女性当事者の口をますます硬く閉ざさせている。その沈黙ゆえに,「中絶する女性たち」に関する誤解や偏見はそのままそっくり残され,何の対策も行なわれず,再び中絶せざるをえない女性たちが出てくる状況になっている……どこかでこの悪循環を断ち切らなくちゃ,と思うのだけど……。