リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

このところ,どうして子どもをわざわざインターナショナルスクール(とはいえ,今のところサタデークラスのみだけど)に通わせているのか……と,改めて考える機会があった。いわゆる「英語子育て」をしているという範疇に入るわけだし,実際,わたし自身も問われれば,「英語環境を与えてやりたい」とか「将来,留学させたい」なんてことを答えるわけなんだけど,今までさほどしっかり考えてきたわけではなかった。

ただひとつ言えるのは,「英語の成績が良くなるように!!」ということを目的にしているわけじゃない,ということだ。英語は道具であって,使えるにこしたことはないけれど,それ自体が目的になったり,ましてや日本人同士で英語能力の比較して,そのなかで秀でていたい……なんて望むことに意味を見いだせないから。

自分が英日翻訳の仕事なんぞをしてきたもので,語学力が今の日本で飯の種になることは我が事として知っている。だけど,娘の時代にはわたし程度に英語が分かる人間はザラにいるだろうし,そもそもの受け手(日本語でしかものを読まない人々)がさらに減っていくだろう時代に生きていく彼女にとって,わたしみたいに「英日翻訳しかできません」(日英には自信がありません)というのでは,お話にならないだろうとも思う。(それどころか,今後のことを考えると,自分自身,英語で発信できるように語学力をブラッシュアップしなければダメだと痛感している。)

結局,英語は道具だ(道具にすぎない)ということを,娘には体感してほしいのかもしれない……。

友だちでありわたしの英語の先生でもあるアメリカ人に指摘されたことなんだけど,どうもわたしは,「何が何でも伝わればよい」という態度ではなく,反射的に「いい表現を考えよう」とか「もっとぴったりくる言葉を探そう」としてしまっているからしゃべれなくなる。もちろんそれは,英日翻訳を訓練してきた者としての反射的な癖でもあるけど,根幹的な問題としては,どうも悪い意味での日本の英語教育が染みついているように思っている。つまり,コミュニケーションとしての英語ではなく,商品や展示品としての英語みたいな扱いになってしまっているのだ。言い換えれば,生きた英語ではなく,半分死んだ英語だとでもいうか……。

これを克服するには,ひとりで英語を勉強していてもダメで,英語を使うことに慣れるしかない。英語の世界に飛び込んで英語でのコミュニケーションをやってみるしかないんだよね。文法力だとか,あるいは英語を一方的に読むだけならば,ある程度知的能力が育った後で自分一人で勉強して伸ばしていくことができる。だけど,双方向のコミュニケーション能力を磨くことは一人では難しいし,学校英語ではなかなかできない。それに,先に学校英語的なものを入れてしまうと,かえってコミュニケーション能力が阻害されるように感じる。それを我が身で痛感してきたから,娘にはまず先に英語を使える環境をできるだけいっぱい与えてやりたいのだと思う。ホームステイなんかを引き受けるのも,半分は自分の道楽だけど,半分は娘のためだ。英語圏の人だけではなく,英語を使えば世界中の人々と触れあえることを体験してほしい。親にはそれしかできない。あとは娘が自分で「体験」を通じて英語を目的ではなく道具にしていってくれればいい……と願うだけだ。

今回,考えてみて,自分が「感性」に関しても同様の捉え方をしていたことに気づいた。娘には,かなり意識的にいろんな美的体験をさせようとしている。アート,音楽,演劇,旅行,動物や植物とのふれあい……。「感動」そのものは教えられないけど,美との出合いを通じて感性は養われていく。感性を磨くのは,それ自体が目的ではない。それはいわば人生を豊かにする道具だから。

アートも音楽も「遊び」にすぎない。インターのサタデースクールも,お勉強というよりは遊びに近い。これを無駄と見る人もいるだろうけど,でも,人生のなかでいったい何に時間やお金をつぎ込めば無駄ではないと言えるのか……? 

今も,これからもずっと手探りなんだろうけど。子育てのことを考えていると,自分の価値観を問い直さずにはいられない。

それにしても,こと子どもについては,ものすごく自分がエゴイスティックだということにも気づかされた。今日のところはその話に踏み込むのはやめておくけれど……。