リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

……何に分類していいのか分からなかったから,とりあえず日記にしておこうかな,と思う。〔だけど,後で考え直して「メモ」に分類し直した。〕

 生殖というプロセスは,関係性と変化,そしてある種の自己犠牲が伴う独特の人間経験である。まず,生殖は一人の女性あるいは男性という個人のみでは完結しない出来事である。そもそも性交という行為自体が最低限でも2人の人間に関わる出来事であり,妊娠という事態になればそれまでは存在していなかった全く新しい第3の生命が関わってくる。いや,むしろ第3の生命が関わってきて始めて,単なる性の営みは生殖のプロセスと呼べるものになると言えるのかもしれない。(体外受精の場合には,通常,もっと多くの人間が関わるけれども……。)
 性交の結果としての妊娠――すなわち受精や着床,胎児の成長――は,ある女性の身体の“内部”で起こる出来事である……それ自体が,すでにそれが“宿った”女性の側のさまざまな“負担”を仄めかしているとも言えよう。実際,そうした出来事が望む望まないにかかわらず自らの“内部”で生じてしまった女性の身体は,当人の意志とは全く無関係に,否応なく変化する。そうした変化の結果として,妊娠した女性の人間関係ならびに社会的地位は,ほとんどの場合,激変せざるをえなくなる。
 そうした女性の側の激変とは無関係に,その女性の内部に宿った生命体は女性の身体を通じて滋養を獲得し,その身体そのものを成長の場とする。誰の目にも明らかなほど顕著な変化を,その新たな生命を宿した女性にもたらす9ヶ月を経て,その新たな生命は一人の人間としてこの世に誕生する。その誕生のときに女性の側が経験する“出産”という体験は,それ以前の9ヶ月の経験とあいまって,当の女性にしばしば他では得がたい特異で衝撃的な影響を与え,後戻りできないような変化をもたらす。そして,出産後,多くの場合,その女性自身が自らの多大な資源を与える育児を(必ずしもパーフェクトではないにしても)(やむをえず?)持続的に行なっていくことによって,初めてその新しい“人間”は,人間社会の一員としての地位を確保できるまでに成長する。

 人間はネオテニーだと言われる。つまり,進化の結果として頭が(脳が)大きくなりすぎ,完全に成熟してから産み落とすことが不可能になったため,人間は他の動物に比べてはるかに未熟な状態で生まれるのだそうだ。人間の赤ん坊は,たとえ正常妊娠の満期で生まれたとしても,他の動物の基準からすれば“未熟児”なのだ。馬の赤ん坊は生まれてほどなく自分の足で立つことができるが,人間の赤ん坊は立って歩くだけでも生後1年間もかかる。自分で栄養をとることもできない。その赤ん坊が生殖可能な――生物学的な意味で次世代を残すことができる――“成体”として機能するようになるまでは,最低でも10数年はかかる。(社会的成熟まで考慮に入れるなら,今の“先進国”であれば,たいてい20年以上かかる。)赤ん坊として生まれた後の“次世代”を次の世代を産み出せる存在にまで育てあげるために費やす人間の“親”の投資は,他の生物や動物とは比較できないほど大きい。
 だが,妊娠した女性が次の世代のために行なう投資(つまり彼女の自己身体その他の資源の提供)は,その女性自身の個体としての利益(たとえば彼女自身の身体的健康,彼女の一人の人間としての職業的な地位,彼女の一人の人間としての満足度と自尊心)を必ずしも益するものではない。その女性の生命を他とは切り離されたindividualなものとして見ている限り,妊娠と出産は,一個の単独な動物としてのその女性にとって,足し引き計算するならマイナスの経験であることが少なくない。

 とはいえ,出産と育児を必ずしも自分にとってマイナスだとしか捉えていない女性ばかりではない。むしろ逆だろう。それは単なる自己正当化だけでもない。たとえ「一人の人間としての自分」にとってはマイナスなことであったとしても,彼女はたいてい別の満足を得ている……それは関係性における満足と言えるのかもしれない。ひとことで言えば「愛」である。それが自己愛と他者愛の微妙なバランスにあるにせよ。
 やがてその新たな人間が,また他の別の人間と性の営みを行なうことで,再び,次の世代の誕生に至る……このようにして人間は生命を繋ぎ,世代を重ねてきた。一方の,宿す性の自己犠牲と愛が費やされて。(宿させる性の自己犠牲と愛がないと言っているわけではない。ただ,総体として考えれば,宿す性の負担のほうがはるかに大きいだろうと考えているだけだ。)生殖(リプロダクション)は,人間の数ある行為のなかでも非常に特異な存在であり,生殖の健康を考えるということは,個体としての人間(宿す性)の身体的well-beingだけでは決して捉えきれず,かといってそれを行なう個人の精神的自己満足だけとも言えない要素をもっている……なぜなら,彼女は未知の可能性をもつ“次の命”を生産したのだから。

……そんなことをつらつらと考えた。こんなことばかり考えているから,論文としてまとめられないんだよなーと思いつつ。

 娘はさっき,「明日,ママと一緒に起きるね」と言って,わたしの腕のなかで眠りに落ちた。でも,わたしはこうやって起きだしてきて,ブログなんぞを書いている。明日は彼女よりも早く起きるだろう。いつものことだ。常に身を削っていくしかないのだ。いったん子どもをもってしまった以上は……少なくとも,わたしが彼女を愛している限りは。

 いろんなことを考えすぎると,博論なんてどうでもいいような気分になってくる。でも,それって,逃げじゃないの?という自分の中でのチェック機構が,かろうじてわたしを論文書きに追いやっている。結局,自分との闘いになるんだよね……なにごとも,たぶん。