著者がはじめて「性」の問題に取り組もうとした本
あちこちで立ち止まり、考えさせられる一冊でした。
家族の問題の中で、もっとも忌避されてきたのが実は性の問題だった。そこに触れずとも生きられるし、あたかもそれがないかのように日常生活を送ることはできる。そのため家族におけるジェンダーや性差別、それにまつわる力関係は温存されてきた。秘されたぶんだけ修正される機会がなく、時代がくだっても、家族間、つまり父・母・子の三者の間において、「当たり前」がそれぞれ異なるということが指摘されずにきたといえよう。
先日亡くなった橋本治は「『当たり前』が大問題になる」というタイトルで以下のように述べる。セクハラという事例の不思議なところは、やる方にその自覚はなくて、やられる方だけが「セクハラだ」と感じるところである。やる側は、「男性優位=自分優位」が当たり前になってしまっているから、その対象となった相手が「被害」を訴えるということが想像出来ないその行為を成り立たせる一方が「自分の優位性」を当然の前提にしてしまっているから、「被害」を受けてしまった側は、そう簡単に「被害」から抜け出せないし、立ちあがることも出来にくい。
(中略)
する側に自覚のない行為は、される側だけに不条理と一方的に引き受けさせてしまう。セクハラが従来の性犯罪と一線を画すのはここのところで、問われるのは、行為の犯罪性や暴力性ではなくて、「当たり前」の中に眠っている「バイアスのかかったいびつな優位性」なのだ。(信田さよ子『〈性〉なる家族』春秋社 2019 pp.2-3)
妊娠から出産に至るまでのプロセスにおいて、母体は時に危機にさらされることがある。出産前後の子どもと同様に、妊娠中および出産前後には母親が死亡する危険性もあるのだ。
(中略)
女性たちのいのちを担保にした妊娠・出産は、時には国家による介入を受けることがある。戦時中の「産めよ増やせよ」キャンペーンや、中国の一人っ子政策がその好例だ。性暴力と戦争との深いつながりについては後の章で述べるが、そこから透けて見えるのは、もっとも個人的な問題である性が国家によって利用され、管理されてきた歴史である。その場合の性とは、孕み産む女性たちの性を指している。国によっては宗教的な理由から中絶手術は今でも非合法のままである。日本でも、正確な避妊の知識を性教育で教えることが問題とされたり、危険を伴う中絶手術が改善されないまま放置されている。
(同書 pp.116-117)
(DV被害を受けて、夫から)
>>離れたいと思いつつも、当面同居するしかない苦渋の選択をした女性たち……(が)……夫と暮す中でどうやって押し潰されずに、人間としての尊厳を守って生きるのか……「最大の武器は軽蔑である」……「嘲笑せよ、DV夫は妻を侮辱できない」ということだ。
私の提案を受けた彼女たちの思いを代弁してみよう。
「夫のDVでうつになったり、恐怖で硬直することもあった。しかしあの夫の言動によって支配され尽くす自分ではない。夫の頭の中を占めている、底の浅い家父長的言葉なんてすぐに暗記できるくらい単純だ。家父長的という言葉すら、たぶん夫は知らないだろう。そんなスカスカの頭の中を私は心底軽蔑している。金を出さないといい、いくら経済的制裁をしようとしても、私の頭の中までは支配できない。DVに関する歴史的知識や構造、さらにジェンダー観など、夫は逆立ちしても理解できないし想像外の世界なのだ。怒鳴り、物を投げ、時には蹴りかかってきたら、その瞬間は凍りつき震えるかもしれないし逃げるかもしれない。だが、それは生命維持のための正しい行動なのだ。しかし心の中では『へこたれない、くたばらないためにせせら笑う』私でいるのだ」
(中略)
性暴力とDVは、被害者の価値観や尊厳まで支配し尽くすほどのインパクトをもっている。だからこそ、被害者は知識で武装し、プライドを死守しなければならない。加害者を嘲笑し、軽蔑するためにも。
(同書 pp.138-139)