リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

26年前の指摘が今もあてはまる進化してないニッポン

『出産と生殖観の歴史』新村拓著 1996年より

あまりにも状況が変わっていないことに愕然としてしまう。

最近のいちじるしい出生率の低下を危惧する声は、将来の労働力人口の減少にともなう経済的な活力の減退や高齢化社会の到来にともなう老人扶養の問題、税収の落ちこみなどを憂慮する国や産業界において強い。それは近世の封建領主が年貢負担人口の減少を恐れて堕胎・間引きをいさめた論理に近いものである。子どもを産み育てる環境を奪っておいて、儒家による見せかけの生命倫理、机上の倫理を押しつけるだけでは堕胎・間引きが消滅しなかったように、生活の満足度をともなわない見せかけの経済的な繁栄と、働くためには産むことを制限せざるをえない女性の労働環境の下では、胎児の生命尊重を論じる声はうつろなものとなり、出産を放棄する女性や子を持つことをあきらめる夫婦も増えている。
(新村拓『出産と生殖観の歴史』p.206 法政大学出版局 1996年)

歴史的にみれば、最近まで多産を富国の基礎と考える国家、あるいは家業や家督の継承を義務と考える家といったものの要請によって、女性は高い乳幼児死亡率を上回る出産の実績を上げ、かつ育児と老人介護と家の内外における仕事とを行い、また行うことが求められていた。女性は将来の労働力を生み出す供給源であると同時に、現時点での貴重な労働力であった。要するに、女性は自分の身体が自分のものでありながら、まったく自分の自由にはならないものであったわけである。日本にも波及した一九六〇年代のアメリカにおける新しいフェミニズム、すなわち、妊娠・出産を自由にコントロールする身体の自由を得てはじめて、女性は男性と同等の条件で社会的労働に参加することができるとする、そうした中絶の自由化への要求をも包み込んだフェミニズムは、国家や家にとらわれていた身体を自分の手に取り戻そうとする運動であった。
(同 p.207)

少産化を止めるには、子をもつことの意味と価値をアピールするだけでなく、利益をうける将来の国家や社会のために子どもの養育にかかわる費用を、現在の国家や社会が積極的に負担していくこともまた重要なことと思われる。
(同 p.208)