国連は第二次世界大戦後に平和と安全保障、人権尊重、国際協力等をうたった一九四五年の国連憲章によって発足し、一九四八年には基本的人権尊重の原則を定め、初めてすべての人の人権保障の目標や基準を国際的にうたった画期的な世界人権宣言(以下、「人権宣言」)を発行した。この宣言に実効性を持たせるために、市民的及び政治的権利に関する国際規約(いわゆる「自由権規約」)とその2つの選択議定書(苦情処理手続きと死刑に関するもの)、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(いわゆる「社会権規約」)とその選択議定書を一九六六年に採択し、一九七六年に発効している。この世界人権宣言と二つの国際規約は、いわゆる国際人権章典を形成している。
人権宣言の2条1項は、「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」としており、さらに同7条では「すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する」とある。つまり、性による差別は人権宣言において否定されている。一九四六年には国連経済社会理事会(以下、「経社理事会」)に「女性の地位委員会」が設置され、政治・市民・社会・教育分野等における女性の地位向上に関して、経社理事会に勧告・報告・提案等を行う。女性の地位委員会は今でも毎年本会議が開かれているが、一九七〇年代までは女性とジェンダー平等を専門に扱う唯一の国連組織だった。グラスゴー大学の欧州現代史家モード・アン・ブレーク教授は、国連におけるリプロの権利の出現に関する論文の中で、国連の女性の地位委員会が一九六〇年代後半に「家族計画」を再定義し、女性の権利の問題として主張することを決定したことが決定的だったとしている。
この女性の地位委員会に対し、二つの女性NGOが重要な役割を果たした。一つは、一八八八年に米国で創設され、第二次世界大戦後は西側世界を明らかな焦点とした最大級の国際女性組織である「国際女性評議会(ICW)」だった。ICWは政治的権利ならびに職業や教育へのアクセスに焦点を当てた「西洋的」会報モデルを推進するリベラル・フェミニズムの性格が強い組織だった。これに対して、世界中の女性組織を結集する目的で一九四五年に設立された女性国際民主連盟(WIDF)は、一時期女性の地位委員会との協議資格を失ったにもかかわらず、帝国主義批判を取り入れ、資源の分配によるグローバルな正義を呼び掛けることで、グローバル・サウスの女性組織と数多くのつながりを築いた。