リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

 4月19日付日記のコメントの中で,わたしが思わず口にした「性差別ってはっきり言わないのは,かつて,女性たちがそれを言い過ぎたせい?」というコメントに,discourさんから「『かつて,女性たちがそれを言い過ぎたせい』と思われるのはどうしてですか?」と鋭いチェックが入りました。行政の「男女共同参画」については,また言いたいことがいろいろあるので今日は置いとくことにして,「言い過ぎた」という言葉が飛び出した背景を,自分の中に探ってみることにしましょう。

 明白に意識していたのは,1970年代冒頭のウーマン・リブの女性たちの言葉――学生運動の残滓を引きずった激しい糾弾口調による女性差別告発の言葉の数々です。さらに,漠然と意識していたのは,1980年代の「女が元気」だとされた時代の一部フェミニスト(自分も混じっているかも……との自戒を込めて)の男性揶揄的な口調でしょうね。
 糾弾口調や揶揄などの“刺激的な言葉”は,一部の男性たちを(女性たちも)目覚めさせるのには役立ったかもしれないけれど,反発した人も多かった。(それがバックラッシュになって表われている。)対立の構図を作ることは,必ずしも物事を解決に導かない。その反省に立って,「差別だ!」と叫べなくなっている人もいるのでは。(わたしは,そうかもしれない。)

 もうひとつ。かつては明らかに見えていた「差別――被差別」構造が,さほど明確なものではなくなってしまったからでしょう。それに,「性差別者!」と言ったとたんに,自分の足元が瓦解していくことを知ってしまうと,なかなか
“自分を棚上げにした”二項対立的な議論には戻れません。

 ところで。この話に限らず,わたしは善かれ悪しかれ“自分を棚上げにした”思考方法を採れないんです。そういえば,森岡正博さんの『自分と向き合う「知」の方法』が5月に再刊されるって生命学のホームページにありました。

http://www.lifestudies.org/jp/index.htm

でも,「自分と向き合う」ことをきちっとやろうとすると,ものすごくしんどいんですよね……。