リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

ドゥルシラ・コーネルは『イマジナリーな領域』で,ニューヨークの精神分析医グラシエラ・アベリン=サスGraciela Abelin-Sasを引用して次のように述べている。

グラシエラ・アベリン=サスは,女性の生の全般的な歴史と語りの構成という文脈において中絶が彼女にとって何を意味したかについての自分なりのストーリーを女性が語れるようになることは,女性の精神的な福利にとって決定的に重要である,と論じている。彼女は,女性が自分自身の中絶と折り合いを付けようとする際の困難を,中絶の「悪霊化」と直接結びつける。この悪霊化によって女性は恥辱の呪いをかけられて,中絶が彼女にとって個人的に何を意味するかを――どのような種類の女性が中絶するのか定義するステレオタイプ的な格子を通して理解されてきたのとは異なった仕方で――分節化するのが困難になる。アベリン=サスは,中絶するという女性の決断を,女性と母性についての還元主義的な一般化によって解釈することは,処置を理解の両面において深刻な誤りであると論じている。アベリン=サスを引用する。

中絶の意味を,たとえば女性の母親としての機能あるいは自らの母や仲間に対する両義的態度と結びつけるような仕方で一般化するというよりも,私はむしろ,中絶の意味は一人一人の女性の歴史と環境ごとに,全く個別であると評価する。

 多年にわたる臨床的実践に基づくアベリン=サスの論評は,真剣に意思決定をすることができない女性だとか,それゆえ中絶の決断が重大な行為であることを肝に銘じさせる映画を州に見せてもらう必要があるような女性を描いているわけではない。実際,これらのフィルムや他の資料は,女性たちが自らの行動についての自分自身による説明を展開することで,中絶するという決断を自らの生命に真に統合することを困難にする「悪霊化」のプロセスの一部として理解するのが最も適切だろう。
ドゥルシラ・コーネル(仲正昌樹監訳)『イマジナリーな領域』2006:89.

この「悪霊化 demonization」について,ここのところ何度か,漠然と考えるともなく考えていた。demonizationはサダム・フセインナチス,あるいはパターナリズムがほとんど暴力的な強制に至るような時のアメリカについても使われる言葉だ(と,思う)。

つまるところ,何かを「悪の権化」として忌み嫌って排除することで,その分,自分は潔白であるかのように見せかける……ということじゃないかと考え至り,ああ,かつてジュリア・クリステヴァの『外国人』を読んだときに考えたこととつながっていたのだなと気づいた。

人は自らの内にある「異質なるもの」「本来の自分であっては困るもの」を「外国人」に投影し,それを忌み嫌うことで,自分自身の純粋性を保とうとする……そういった話だったように記憶している。

いつかきっと読み返さなければいけない本だと分かっているのだが……………………………………。

考えが散漫になってきたので,中絶の文脈で「悪霊化」の中身にあたりそうなものを引用することで今日は終わりにしておこう。