リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

家庭教育における性別役割分業――変質する家族像を手がかりに――

立命館法学 2022 年 4 号(404号)

家庭教育における性別役割分業――変質する家族像を手がかりに――立命大学 法学部教授 德久 恭子

団塊ジュニアの著者による論考。とても面白い。

本稿は「家族がケアする」こと,より正確には,性別役割分業を所与として「母親がケアをする」ことを前提にした社会規範およびそれを体現した家族がどのように築かれたのかを教育の問題に焦点を据えて検討する。そのうえで,共働き化の進む社会においても「ケアする家族」であることを期待するならば,家族はどうあるべきかを少しばかり考えたい。

著者は以下を参照して、30代男性の動向に注目する。
男女共同参画白書 令和4年版 全体版(PDF版) | 内閣府男女共同参画局
2-16図 「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に関する意識の変化
2-17図 「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に関する意識の現状(令和元(2019)年)

 子育て世帯の共働きは無条件に成立しない。共稼ぎの利点が家事・育児という有償・無償のケア労働の負担を上回る体制を家庭内で築けなければ,市場と家庭における生産活動を分業せざるを得ない。これを「家事などと両立しながら妻が働くことは可能」という回答に代替させて,年代別に確認しよう。妻の両立は可能とする回答は,30代男性で28.7%,40代男性で24.4%,子育てが落ち着く50代で32.3%,子育てを終える60代で40.2%に跳ね上がる。子どもの年齢が低いほど育児負担(実働)は大きいことから,30代がより多くの困難を抱えるといえる。
 男性の中で性別役割分業を支持する割合が最も低い30代であっても,性別役割分業への支持は一定ある。家庭教育の適任性(「妻が家庭を守った方が子供の成長などに良い」(30代男性 71.4%,40代男性 60.0%))が筆頭理由となる。共働きの実行不可能性を示す回答(「家事などと両立しながら妻が働くのは大変」(30代男性 51.4%,40代男性 41.2%))も相当高い。この回答は,育児に対する女性の労働環境の寛容さが影響すると考えられるため,理由の精査が必要になる。それを理解したうえで,大胆に推測すると,家庭内の生産活動(家事,育児,教育,介護等)の適任性を性別で判断するほど,また,家庭内のケア労働を共有化する環境づくりを妻も夫もそれぞれに行うコストが高いと認識するほど,両立困難と答えると考えられる。逆に,家庭内の生産活動を共有し,それをなす環境づくりを対内的にも対外的にも進める必要があると認識する男性は,両立可能とみなすことになる。

著者はその理由を「社会化」(特に自分の親がどのようなロールモデルであったか)と、学校教育(特に家庭科)に探っている。しかし、個人の「指向性」よりも、「構造的な問題」の方が大きく関与しているようだ。

少子高齢化の進む日本で将来にわたる労働力を確保するには,女性の労働市場への参加と出生率の上昇が求められる。ワーク・ライフ・バランスの実現が欠かせないが,現状はそれを推進する政策と困難にする政策とが混在し,綱を引きあっている。

日本では,労働市場のデュアリズムが男性正規社員従業員(以下,正社員)の安定雇用と労働市場の弾力性を保障する一方で,労働市場における女性の周辺化と有償・無償のケア労働の女性偏重をもたらし,性別役割分業を一層強化させた(大沢 2007)。近年の労働力不足は女性に参加を促すものの,ケア労働は軽減されず,市場と家庭内の生産活動の両立を女性の責任で果すことを求める。結果として,出生率は漸減したままにある。

 令和3年の社会生活基本調査によれば,1歳未満の子供をもつ夫の家事関連時間は(1週全体で)1時間54分,妻は7時間28分を割いている。夫の家事関連時間は増加傾向にあるものの,夫婦間の格差は著しく,性別役割分業は明らかだ。
 むろん,そのすべてが男性の怠惰を示すわけではない。日本の男性の有償労働時間は国際的にみて極端に長く(図4),家事や育児等の無償のケア労働を担うことは物理的に難しい。有償・無償労働時間を合わせた総労働時間を男女別にみても,日本は OECD 諸国の中で非常に長く,時間的な余裕を欠くことから,個人の努力による改善は望みがたい。

いわゆる「働き方改革」が必要なわけですが、それが全然進んでいない……。

 男性が家事や育児に関われない/関わらない現実は,女性に育児を強要させる。女性自身,無意識にもつジェンダー・バイアス(母親らしさ,育児は女性がするもの)が自縛的に育児を強制する点も否めない。男性の無限定な働き方は,女性が専業主婦としてケア労働を一手に担う場合に成り立つもので,共働き化を予定しない。結果として,女性の社会進出は出産の忌避や育児と仕事の両立を断念させている。

かくして少子化は悪化する。

 学校教育を通じて内面化されたジェンダー規範と戦後の経済体制が活用した分立型の性別役割分業は,男性稼得者モデルが機能した1980年代までは問題になりにくかった。世帯収入の減少から共働き化が進むと少子化という形で現れた。ケインズ主義的福祉国民国家は,ケアを政治経済から外部化し,家族に担わせたからである。新たなケアの担い手を欠いたまま,女性が市場に参加すれば,付けは家族に回る。隘路を抜け出すには,家族の外延を広げる必要がある。落合が指摘するように,現代日本で求められるのは,新しい家族のあり方を保障する制度改革かもしれない。
 だがそれは容易でない。戦後から現在に至る女性政策,教育政策,社会保障政策,労働政策は「ケアする家族」の問題と不可分の関係にあり,個別の政治過程には,いずれの家族像を体現するかという理念の衝突があった。私たちは,これからどのようにして「共にケアする家族」を築けばよいのだろうか。冒頭の問に戻るわけだが,ここでいう「共にケアする家族」は「共にケアする社会」の構成要素であり,政府による支援が求められる。というのも,共働きが一般化した社会で出生率を維持し,高齢化した社会で尊厳のある暮らしを営むには,ケアの単位を夫婦や親子に限るのではなく,外延を広げて共に支えあうことが欠かせないからだ。むろん,実現は容易でない。「協働」の仕組みが求められてから20年以上経っても上手く機能しないのは,阻害要因があることを示唆する。ケアを家族の問題に限る社会規範の根強さは,その一つに挙げられる。これを変えるには,新しいアイディアの推進者を政策決定の場に参加させ,制度化させることが有効だが,それには政治判断が俟たれる(堀江 2005)。
 もう一つは,ケアの供給主体の選別と分立である。家族によるケアを前提にする日本では,ケア労働の当事者性が限られ争点化を免れてきた。「共にケアする社会」の実現には,誰もがケアの担い手となること(当事者性の普遍化)を仮定した政策形成が望まれる。社会規範の転換を促すためにも,柔らかい家族のあり方を許容する家庭科教育のあり方が問われるかもしれない。これらの問題を検討することを今後の課題としたい。

社会規範の転換は一朝一夕には起こらないけれども、むしろ私が指摘しておきたいのは、家庭科教育の中で行われることの多い「ライフプランニング」教育がもたらした副作用である。


政府は国の少子化対策「20代のうちに子どもを産ませよう」として、「卵子の老化」という「科学的事実」を教えたり、中高校生に人生のどのタイミングで子どもを産むかを真剣に考えさせたりしてきた。しかし、その結果、「わたしには無理そう……」と結婚も出産もあきらめる層をたっぷり産んできてしまったのではないだろうか。


なにしろ、親を見ていても「家庭と仕事」の両立はあまりにも大変そうだし、女性がいったん「キャリア」を外れてしまうと、いかに「損」であるのかもたっぷり学んできてしまった。


非婚で勤続することを希望する若い女性が増えているのも、当然の帰結のように思われる。