リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

人工妊娠中絶の技術革新と女性の福祉(ウェルフェア)

自己ブログの再引用!

18年前にこんなこと書いていたんだなぁ~っと💦 ウェルフェアの使い方が唐突過ぎるけどね。

人工妊娠中絶の技術革新と女性の福祉(ウェルフェア) - リプロな日記

 明治元年に,日本政府は堕胎・間引きを禁止した。これは近代国家としての体裁を整えるためだったと言われる。堕胎・間引きといった野蛮な風習を一掃し,他のキリスト教国に則って堕胎を禁止すると同じに,軍事的にも強大な近代国家を形成するために人口政策を重視したのである。いわゆる「産めよ殖やせよ」が国家戦略となって,中絶は原則禁止された。妊婦の生命の危険など,医学的理由がある場合に限って,近代医学を修めた医師の施術は容認された[28]。

 明治23年(1890年)に刊行された『実用産科学』[29]の「人工早産」の項は,事実上中絶技法の紹介として読める。人工早産法を「胎児の子宮外生存が可能だがまだ未熟である妊娠28~30週以上の催娩法で,母体,胎児,あるいは両者の生命を救おうとするための処置」と定義しながら,「妊娠34-36週に至るまで胎児の多くは死亡する」との但し書きがあり,現実には母体のみしか救えない(胎児は死亡する)との認識を有していたことが伺われる。なお,ここで詳述される卵胞穿刺法,卵胞剥離法などいずれの術式も,子宮内容物が自ずと排出されるように機械的に直接刺激を与える手法であるが,西洋医学の知識を備え,外来の産科器具(現在も使われているコルポイリーゼやヘガール拡張器,ブージー,ラミナリアなど)を駆使するなどの点で,江戸期の堕胎医とは一線を画している。むしろ,民間療法的な伝統を断ち切ったところに,西洋産婦人科学は成立しようとしていた。初の婦人科・産科教室はドイツから帰国した濱田玄達が1888年明治21年)に東京帝国大学医学部に開設している[30]。しかし,古くからの中條流に代表される堕胎技術との決定的な違いはまだ明瞭ではない。そうした違いが決定的になるのは,もう少し時代が進んで「器械」「消毒」「麻酔」の3つの足並みが揃うことで,外科的介入の範囲が劇的に広まった時であった。

 大正6年(1917年)に刊行された『新撰産科学』[31]は,流産の処置として金属製拡張器やラミナリア,鉗子などを使った用手的排除法と並んで,流産鉗子[32]やキュレー(有窓鋭匙)を使った「掻爬」の技法に触れている。この技法が,当時は非合法であった堕胎に応用可能であることは言うまでもない。またこの時点で早くも子宮穿孔の恐れが指摘されていることも興味深い。

用手剥離術に完全排除の目的を達し得ざるか,或は急速除去を要するものにありては,流産鉗子 abortzange若しくは「キュレー」(有窓鋭匙)Abortcuretteを用いて掻爬せざるべからざることありといえども,この際子宮柔軟なるが故にその穿孔を来すこと敢て稀なりとせざるを以て此を敢てせんには極めて細心ならざるべからざるなり。磐瀬雄一『新撰産科学』[33]

 また,様々な産科器械と同じにリゾール液(消毒液)の使用にも触れている。そろそろ日本の産婦人科にも外科的な要素が導入されつつあった。

 同じ頃刊行された『臨床産科治療法』[34]は,明治以来の卵膜剥離法や卵膜穿刺法と共に,クロロホルムエーテルによる全身麻酔を用いた帝王切開術(チュールゼン氏膣式国帝切開術術式と,2デーデルライン氏法術式の2種)も紹介している。日本における本格的な外科的産科の登場である。

 西洋産科学の歴史は,鉗子,麻酔剤,消毒液の3つが揃ったことで劇的に進展した[35]。中絶技法に関しても,この3つが出揃ったことで女性に対する外科的な介入を可能にした。そうした“3種の神器”の登場のおかげで,危険性が高く不確実な膣内挿薬などに頼るのではなく,目の前の「モノ」を外科的に取り除く手法=D&Cが可能になったのである。これは中絶技法の歴史における画期的な変化であり,この外科的中絶技法への移行をここで「第一次中絶革命」と名付けることにする。